結核について調べて行くと現在の日本の国立病院網に繋がって来たことが分かります。1904年の日露戦争による傷病兵の治療にあたる療養所や、結核患者の治療を行う結核療養所が各地に設立されました。
1945年、全国にある50箇所の傷痍軍人療養所と95箇所の結核療養所が厚生省の所管となり、国立療養所の体系が形成されました。傷痍軍人療養所は、陸海軍の病院の所属でした。
一方、結核療養所(サナトリウム)は、その多くが各宗派キリスト教会が主体となり各地に設立されていましたが、1943年、厚生省衛生局長と内務省地方局長による通知で、地方の結核療養所が日本医療団に統合されました。
国立療養所は、厚生省の附属機関に位置づけられ、医療の専門化高度化に伴い整備・再編が進められ、2004年、独立行政法人化により多くが国立病院機構に改編されました。
国立病院機構は、本部を東京都目黒区に置き、全国に143の医療施設(病床数約52,000床)、看護学校、助産学校等の付属施設と約59,000人の職員を有する日本最大の病院ネットワークです。
この流れの中で気になったのが日本医療団です。日本医療団は、第二次世界大戦中の日本に存在した特殊法人で、日本全国における医療の普及とその内容の向上を目的に設立されました。
戦時下の1942年(昭和17年)に結成され、終戦後の1947年に解散しました。ウィキペディアには、「終戦後、厚生省医務局長の東龍太郎は戦時中に設立された営団・公団の解散命令を見て日本医療団もいずれ解散命令が下ることを予想」
「GHQと接触して自発的解散を決断。職員のなぜ解散するのかという質問には「天の声である」と返答した」と記述されていました。この出来事から見ても日本医療団がGHQの配下にあったことが覗えます。
東龍太郎の御魂が上がるよう光を降ろすと「米国派工作員」と伴侶が伝えて来ました。やはり米国の傘下にあったようです。また、日本医療団の初代総裁の稲田龍吉が気になり、ウィキペディアを読み始めました。
すると画像を観た途端、グルグル目が回って気持ちが悪くなりました。稲田龍吉(1874年-1950年)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者で、九州帝国大学医学部第一内科初代教授です。
稲田龍吉と自分が過去世で関係があると感じて光を降ろすと、魂を共有していると分かりました。稲田龍吉の御魂と自分の過去世が光に統合するよう光を降ろしました。
日本医療団の二代目総裁の戸田正三(1885年-1961年)は、日本の衛生学者で、731部隊から(現在の価値で)約2億円を超える研究資金を受け取っていたことが京大が保管する文書に記されいます。
戸田正三のワークでは、背後に重たいプレアデスの闇がいたことが分かっています。日本医療団はGHQによって動かされて、現在の国立病院網が米国軍産複合体に支配されていることが垣間見れます。
日本の医療は、歴史的経緯から、戦争のため、米国の軍産複合体のための人体実験とデータ収集の闇を引きずって来ています。日本の暗闇の医療に光が広がって行くことを願っています。(おわり)