3日前、テレビで火縄銃の実験をしている番組を少し観ました。すぐにチャンネルを変えると今度は、別の番組で、織田信長が鉄砲隊を率いて武田勝頼の軍との合戦である長篠の戦いの場面を目にしました。
「鉄砲(火縄銃)」「織田信長」がキーワードで、ワークのサインだと感じました。戦国時代の戦において、鉄砲は画期的な武器でした。従来の伝統的な武器として刀を凌駕する飛び道具としての鉄砲は、戦(いくさ)を一変するものでした。
長篠の戦いは、1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。伝統的な戦法の武田軍に対して、織田信長は、3000丁の鉄砲を用意して鉄砲隊を率いて戦いました。
織田信長が率いる鉄砲隊が新戦法の三段撃ちを実行して、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍勢に勝利しました。ここで疑問になるのが、織田信長が3000丁もの鉄砲をどこから入手したのかです。
そもそも、武器とは人間を殺傷する道具であり、正統派の闇のツールと言えます。武器は、刀(剣)から鉄砲に移り、戦闘機やミサイルに発展して来ました。古来より、武器は、麻薬、人身売買と共に、裏世界の反社勢力の資金源となる商材とされます。
ネット検索して調べると《長篠の戦いで使われた鉄砲の生産地はどこ?》を見つけました。日本への鉄砲伝来は、1543年、鹿児島県の種子島に、火縄銃が積まれたポルトガル船が漂着したことに始まります。
種子島の領主の種子島時尭(ときたか)が、200両で2丁の火縄銃を買い取りました。現在の価値では、2丁で2000万円~4000万円という大金です。種子島時尭は、日本国内での鉄砲の量産化を考えます。
そこで呼ばれたのが、美濃国生まれの刀鍛冶師の八坂金兵衛です。この刀鍛冶師・八坂金兵衛が日本で初めて火縄銃を作った人とされます。また、武器の噂を聞いて種子島にやって来た2人の人物がいました。
1人が、和泉国堺(大阪府堺市)の商人・橘屋又三郎です。橘屋又三郎は、種子島に長期滞在して、火縄銃について学び、その知識を堺に持ち帰ります。そして、堺で火縄銃を使った商売をすることになります。
もう1人が、紀州(和歌山県)の根来寺の僧侶の津田算長(かずなが)です。津田算長は、火縄銃を紀州に持ち帰り、刀鍛冶師の芝汁清右衛門に同じものを作らせて、これが広まったとされます。
和泉国堺(大阪府堺市)と根来寺のある和歌山県岩出市は、比較的近い距離です。戦国時代において、火縄銃は、堺と根来で作られていたのです。過去のヒプノセラピーから堺の地は、やまとびとが暮らす光の場所だったことが分かっています。
堺という光の場所を闇で封印するためい、火縄銃という武器の製造と売買の拠点になったと感じます。そして、根来寺のある和歌山県岩出市は、中央構造線の通る場所であり、火縄銃製造という闇で封じるためだったのです。(つづく)