
本能寺の変を調べていくとイエズス会やキリスト教カトリックと繋がる人物が浮かんできます。まず1人が細川ガラシャ(明智玉)です。細川ガラシャ(1563年-1600年)は、明智光秀の三女で、細川忠興の正室です。
細川ガラシャは、壮絶な最期を遂げた女性と伝えられています。ウィキペディアによると、石田三成勢に屋敷を囲まれた細川ガラシャは、家老に介錯させて、自分の遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛けて火を点けて自刃したとされます。
しかし、過去のヒプノセラピー《悲劇の隠れキリシタンに仕立てられた細川ガラシャ》では、全く異なることが伝えられました。細川ガラシャは、爆破して自害しておらず、部下の助けで里に逃げたのです。
さらに、隠れキリシタンではなく、キリスト教信者でもなかったといいます。個人的には、イエズス会を中心とするキリスト教カトリック勢力が、弱者の立場の隠れキリシタンを確立して同情を得るための印象操作だったと感じます。
もう1人が黒田官兵衛です。黒田官兵衛(1546年-1604年)は、筑前国福岡藩祖であり、キリシタン大名です。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて、調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をしました。
キリシタンであった黒田官兵衛は、当然、イエズス会と通じていたと思います。本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、中国大返しを経て、豊臣秀吉勢が明智光秀勢を山崎の戦いで破りました。
しかし、山崎の戦い後の明智光秀の最期が明確ではないのです。ウィキペディアによれば、光秀は勝龍寺城を密かに脱出して居城の坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区の明智藪)で土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命したといいます。
ガラシャの件から、山崎の戦いは、見せかけの戦いであり、演出の戦だった可能性が高いと感じます。秀吉の側近のキリシタンの官兵衛と娘が隠れキリシタンとされたガラシャの父親の光秀は、イエズス会を通じて繋がっていたのです。
その根拠として、明智光秀は、本能寺の変の後、天海上人として生延びたという《天海=明智光秀説》があります。天海は、天台宗の僧侶として徳川家康の側近で、江戸の設計という名の下に、江戸の結界を構築したとされます。
天海上人は、日本の中心となる江戸の地を封印する役割を果たしました。私は、「天海上人の魂を上げていなかった」と気づきました。2014年、会津巡礼の旅で龍興寺を訪れた際、天海上人に光に還るよう促すと待つように伝えて来たのです。
天海上人は「分かっておる。もう少しみたい。良いな」と伝えて来ました。天海=明智光秀という真実を知る必要があったのです。明智光秀、天海上人の御魂が上がるよう光を降ろすと「結界を張っている姿が見えた」と伴侶が伝えて来ました。
本能寺の変の際、信長の最期も家に火を放つガラシャと同じやり方です。背後でイエズス会が操っていた可能性があると感じます。戦国時代の権力者だった織田信長、明智光秀、豊臣秀吉の背後にキリスト教カトリック勢力が深く入り込んでいたのです。(つづく)