tokachi heiya


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1日の夜中に、かなり強い頭痛に襲われました。頭頂部よりも右側の辺りが痛んで、十勝周辺だと思いました。明らかに闇の解除のサインであり、「関寛斎(せきかんさい)」だと直感しました。

 

関寛斎(1830-1912)は、1ヶ月前、北海道開拓についてネットで調べていた時に行き着いた人物でした。幕末から明治時代の上総国(千葉県東金市)に生まれの蘭方医です。養父の儒家・関俊輔に陶酔され、佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時に銚子で開業します。

 

豪商の濱口梧陵の支援で長崎に遊学し、オランダ医師のヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩・蜂須賀家の典医(てんい)となります。戊辰戦争では、漢軍の奥羽出張病院長として執務し、その後、徳島に帰り、一町医者として庶民の診療に尽力します。

 

1902(明治35)72歳にして徳島を離れて北海道に渡り、原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓きます。後にこの土地を開放し、自作農創設を志しますが、果たせずに、82歳にして服毒により自ら命を絶ちます。

 

佐藤泰然のもとで関寛斎が記録した「順天堂外科実験」、ポンペに学んだ「朋百氏治療記事」「七新薬」は、当時の医学に係る第一級の資料とされます。関寛斎は、医療伝道系統の米国派の医師とは異なり、長崎を起点にしたオランダ人医師から学んだ人物でした。

 

これまでの調査やワークから北海道開拓には、麻薬や人体実験が伴っており、それが隠蔽されたことが分かっていました。北海道開拓の名の下、裏側では資金稼ぎのための反社活動が行われてきたのです。

 

もう1つ、関寛斎が最期に自害したのが疑問でした。ネット検索すると《関寛斎》に「長男生三の息子から財産分与をめぐる訴訟」という一文があり、これが直接的な原因だと感じました。金を巡る親子の対立が窺えます。

 

さらに「四男関又一が札幌農学校を卒業すると、さらに北海道の奥地の十勝・釧路にまたがる陸別原野1,377haの貸付を受け、最大108haに拡大した樽川の関農場は、入植していた小作人たちにまかせた」とありました。

 

関又一(1876-1948)は、札幌農学校の学生時代から北海道開拓の意欲に燃えて、卒業論文「十勝国牧場計画」を書いたとされます。四男の関又一が進めていた十勝国牧場計画に、父親の関寛斎が後から乗ってきた状況が垣間見えます。

 

関寛斎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「専門家会議の座長の前世。医者じゃなくて官僚。金」と伴侶が伝えて来ました。四男の関又一の御魂が上がるよう光を降ろすと「エゴ。勘違いしていた」と伝えられました。

 

やはり十勝国牧場計画を立てる時点で、金目的であったように感じます。北海道開拓における関寛斎、関又一について、さらに調べていくと「キリスト教」「十勝監獄」に繋がっていました。(つづく)