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定恵は、中臣(藤原)鎌足が父親とされるのが通説です。しかし、調べてみると第36代天皇の孝徳天皇(在位645-654)の次男で、有間皇子の弟という説もあります。日本の最初の仏教通史「元亨釈書」では、定恵を孝徳天皇の子と明記されているといいます。

 

有間皇子は、蘇我氏と中臣氏の対立に深く関わり、天皇への謀反計画が発覚して命を終えた人物です。有間皇子に近づいて、謀略をしたとされるのが蘇我赤兄(そがのあかえ)です。斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘して、自分は有間皇子の味方だと告げました。

 

有間皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自分の意志を明らかにしました。ところが、蘇我赤兄が中大兄皇子に密告したため、謀反計画が露見して、翌々日に絞首刑に処せられました。658年、享年19でした。

 

これは藤原鎌足の策略だとされます。同じ蘇我氏でも宗家の蘇我入鹿とは異なり、蘇我赤兄は分家であり、そこを藤原鎌足は利用したのです。《藤原鎌足の陰謀の法則》には、蘇我入鹿の殺害、有間皇子の処刑の他にも鎌足の謀略の事実が記されています。

 

643年の山背大兄王(=厩戸皇子の長男)の殺害、645年の古人大兄皇子(=舒明大王の長男)の殺害、649年の蘇我倉山田石川麻呂(=筆頭分家の長男)の殺害です。藤原鎌足のこうした謀略の流れを見ていくと定恵は、鎌足に利用されたと感じます。

 

その客観的な状況証拠の1つが、定恵の死期です。6659月に、朝鮮半島の百済を経て、唐から日本に帰国しましたが、同年12月に大原(現在の奈良県高市郡明日香村)で亡くなっています。暗殺されたと言われています。

 

藤原鎌足、中大兄皇子、定恵、有間皇子、蘇我赤兄のそれぞれの御魂が上がるよう光を降ろしました。定恵については「使われた人。工作活動に使われた人」と伝えられました。蘇我氏と中臣氏の対立の中で、調略、謀略などの工作活動を通じて幾つもの命が奪われたことが分かります。

 

2014年9月の奈良巡礼の旅で飛鳥寺の蘇我入鹿の首塚で光を降ろした際に「私も黒いことをしてきた。大陸の人たちと上手くやろうとしたが、向こうのほうが勝っていた」と入鹿が伝えて来ました。「向こうのほう」とは中臣鎌足ことです。

 

日本を封じるために、大陸、朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが、日本国内において、勢力争いで激しく戦ってきた歴史が垣間見えます。談山神社について、蹴鞠の発祥地であることが気になりました。

 

ウィキペディアを見ると、蹴鞠名人の藤原成通(ふじわらなりみち)の夢に出てきた、3匹の猿の姿をした鞠の精霊が、蹴鞠の守護神として、大津の平野神社と京都の白峯神宮に祀られているといいます。

 

また、蹴鞠を家業とする家の1つが、賀茂氏・賀茂神社です。日本サッカー協会のシンボルマークは、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身とされる「八咫烏」です。蹴鞠の鞠の皮は鹿であり、シリウスや精霊と関係していると感じました。(つづく)