フレデリック・スタール(1858年-1933年)は、米国ニューヨーク州出身の人類学者であり、日本では「お札博士」として知られた人物です。松浦武四郎の最初の伝記執筆者であり、土俗玩具の収集家でもあります。スタールは海外での人類学の研究も盛んに行っていました。
1905年から1906年にかけてアフリカのコンゴ自由国のピグミー種族など28種の民族について研究をし、1908年にはフィリピン諸島で、1911年には韓国で人類学調査を行っています。また、1912年には、当時もっとも危険な地帯と考えられていた西アフリカのシエラレオネ、リベリアなどで暮らしています。
さらに、スタールは1904年に初来日をしますが、その目的がセントルイス万国博覧会の人類学参考館に「生きた展示品」としてアイヌを何人か連れてくることでした。私は初めて知りましたが、「生きた展示品」のことを「人間動物園」を言うそうです。
スタールは、人間動物園に展示するアイヌを探して米国へ連れて行くために日本に来たのです。人間動物園のウィキペディアによると、「1903年11月、セントルイス万国博覧会の人類学者部門責任者のマクギーは、正規の規格の一部としてワシントン日本大使館にアイヌの展示協力を計画書とともに依頼した。
選定にはシカゴ大学の人類学者のフレデリック・スタールとアイヌ研究者であるジョン・バチェラーが協力し、9人とのアイヌが旅券に北海道平民として記載され渡米した。9人は7ヶ月の長期滞在の間、1日1円(現在の約3000円)の報酬と民芸品の売上を獲得した。
9人のアイヌのうち数名は日本語ができなかったと考えられる。文化程度の低い民族として選ばれたアイヌであったが、信仰心や勤勉さ、礼節について見学者から高く評価された。」と記されています。セントルイス万国博覧会で、アイヌの人たちを見世物にして金の闇にして来たことが垣間見えます。
人類学者のフレデリック・スタールがアイヌの父と呼ばれたキリスト教宣教師のジョン・バチェラーが深く関わりを持っており、自分たちのエゴを満たすためにアイヌ民族を利用していたのです。セントルイス万国博覧会では、アイヌの他に、アパッチ族、フィリピンのイグロット族、ザイールピグミーのムブティ族なども展示されたといいます。
そもそも人間動物園は、民俗学的展示や人間の展示とも言われます。人間動物園は、19世紀から20世紀にかけて、社会進化論、人種差別、進化主義、植民地主義に根ざした、野蛮、未開とされた人間の文化・生態展示のことです。
当時、人間動物園は、ハンブルグ、アントワープ、バルセロナ、ロンドン、ミラノ、ニューヨーク、ワルシャワの各地にあり、20万人から30万人の観客を集めたとされます。多様性を受け入れずに、先住民や原住民を分け隔てして見下す特権階級の白人や欧米人の傲慢さが伝わってきます。
フレデリック・スタールの御魂が上がるよう光を降ろすと「エゴの松」と伴侶が伝えて来ました。エゴを満たすための松果体摂取に関係していたようです。それ故、世界各地の先住民の地に足を運んでいたと思います。人類学とは一体何なのか疑問です。スタールは、先住民の人たちの純粋さを穢して闇にする役割だったと感じます。(つづく)