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北海道八雲の開拓は、1878年、尾張徳川家17代当主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)が旧尾張藩士授産のために土地の払下げを受けて、「徳川農場」を開いたことから始まりました。ネットで調べると徳川農場の主として有名なのは「徳川義親(とくがわよしちか)」です。

 

徳川義親(1886-1976)は、尾張徳川家第19代当主で、政治家、植物学者、狩猟家です。戦前の侯爵・貴族院議員であり、第25軍軍政顧問でもあります。戦後は、社会党を支援して党顧問となりますが、公職追放を受けました。

 

日ソ交流協会会長でもあり、戦前、マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれたといいます。北海道開拓から科学、政治や軍事まで実に幅広い領域において活動していたことが分かります。

 

徳川義親のウィキペディアには、アイヌの父とされる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーとの繋がりも記されています。「1926年頃から、ジョン・バチェラー博士によるアイヌ語の辞書の改定とアイヌ保護学園の財団法人化を支援した。

 

192611月に東京で開催された第3回の汎太平洋学術会議の際には、バチェラー博士を会員に推薦し、同年10月に会員20名を帯同してウサックマイや白老のアイヌ部落を視察旅行し、博士は大会で「アイヌ民族、その起源ならびに他民族との関係」の講演を行った」と記載されています。

 

アイヌ民族を利用して利益を得るアイヌ利権集団の主体援助者になっていたとも感じます。その可能性を《徳川義親候とユーラップ・アイヌ》の内容が示唆しています。徳川義親の熊狩りに同行するなど親交のあったアイヌの椎久年蔵の存在です。

 

椎久年蔵(1884-1958)は、八雲町遊楽部(ゆうらっぷ)のコタンで指導的立場になったアイヌです。徳川義親と椎久年蔵の御魂が上がるよう意図して、それぞれに光を降ろすと「同和」と「アイヌを金の闇にしていった」と伴侶が伝えて来ました。

 

ネット情報から勘案すると、徳川義親は、米国派に対抗する工作活動へのスポンサーとしてロスチャイルドと繋がっていたと感じます。椎久年蔵は、徳川義親に指示の下で、コタンのアイヌを取り纏めていたのでしょう。

 

ピリカ会で村岡格に協力していたアイヌの長・辨開凧次郎と同じ立場だったと感じます。八雲を含めた北海道のアイヌ民族は、和人の権力者や医師、欧米のキリスト教宣教師、人類学者などに利用され、金の闇に染められたのです。

 

表面的には、宗教、人道、慈善活動と見せかけて、実体は、アイヌを利用した金儲けを目的にしています。北海道開拓は、苦労話や美談で覆われて、真実である汚れた歴史が隠されてきました。

 

アイヌ民族は身体的に虐げられただけでなく、金やエゴの闇によって心の純粋さも穢されてきました。それが今の「ウポポイ」に繋がっています。712日、北海道白老町にオープンした「民族共生象徴空間」という箱物の施設です。

 

「同和利権」という言葉があります。弱者の立場を全面に出し働きかけて利益を得ることです。同和利権の1つとして「アイヌ利権」もあります。アイヌ民族としての弱者を利用して利益を得ることです。

 

純粋さを失った一部のアイヌの人たちと私服を肥やそうとする政治家たちが1つの利権集団となって公金を自分たちに流しているのです。アイヌの人たちが本来の純粋な姿を取戻すことを願っています。(おわり)