大阪府八尾市のウィキペディアを調べていくと、「飛鳥時代には、一帯は物部氏の勢力圏下にあり、武具を製造する集団がいたとされるが、物部氏は物部守屋のとき蘇我馬子と、この一帯で戦い敗れたために滅亡した」とあり、物部氏と深い縁の場所と分かりました。
廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏は対立していました。崇仏論争は、6世紀に、大陸から伝わった仏教を受入れるかどうかを巡り、廃仏派(反対)の物部尾輿と崇仏派(賛成)の蘇我稲目が始まりでした。実質的には、神道か仏教かの争いだったと感じます。
物部氏と蘇我氏の渡来人同士の宗教の争いは、松果体の利権争いだったと思います。当時は、物部氏が松果体獲得から生まれる利益を握っていたのでしょう。神社や寺院という宗教の隠れ蓑の下に、人間や動物を殺めて得られる松果体の収穫が密かに行われていたと感じます。
松果体の収穫は、権力者が民人を支配する「生贄」として形作られて来ました。物部守屋というと、諏訪信仰の聖地である守屋神社と諏訪大社の神長官・守矢氏が浮かびます。長野県の守屋山山頂に物部守屋を祀ったとされる守屋神社奥宮があります。
物部守屋が何故、諏訪地方に祀られたのかを調べると《諏訪氏を頼りに諏訪に落ち延びる守屋一族》を見つけました。物部氏は諏訪氏と縁戚関係にあったといいます。物部守屋一族は、蘇我氏との宗教戦争に敗れ、片倉村に落ち延びて守屋を追慕しながら、この地で代々暮らしたようです。
過去のワークでは、諏訪大社の神長官・守矢氏邸(神長官守矢史料館)内にある御頭御社宮司(おんとうミシャグジ)総社は、精霊を封印する役割だと分かっています。《75頭の鹿の首を捧げる「御頭祭」って? 》には、生々しい75頭の鹿の首を使う諏訪大社の神事の御頭祭(おんとうさい)について記述されています。
自然動物を斬首することで松果体を獲得する名残の神事だと感じます。物部氏は、八尾市を含めた生駒山の麓の地域が活動拠点でした。物部氏の配下の実働部隊の人々が松果体の収穫のための動物の狩猟と解体をしており、膠(にかわ)職人や食肉加工の仕事に携わってきたと思います。
現在の被差別部落の人々の先祖は、物部氏のような支配者の下で松果体の収穫を担っていたのだと感じます。八尾市には、長野の善光寺に関係した善光寺もあります。長野の善光寺は、物部守屋の鎮魂寺という説もあります。
過去のヒプノセラピーでは、前世において、松果体摂取のための生贄が行われたことが伝えられました。八尾市のワーク対象として、安福寺、善光寺、八尾神社、玉祖神社を選んで、それぞれに光を降ろすと「いいです」と伝えられました。
物部守屋の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「臭う。アイヌと同じ臭いがする。野蛮な感じで腕力に物を言わせていた」と伴侶が伝えて来ました。物部氏と蘇我氏のような廃仏派(神道)と崇仏派(仏教)の対立は、四天王寺の建立で手打ちとなり、松果体の利権は、神社と寺院に分配されるようになったと感じます。
松果体は魂が宿る場所であり、松果体摂取は魂の光を奪うことでもあります。松果体という魂の光を摂取するための生贄は、苦しみ悲しみの闇を生む一方で、大金という大きな利益が得られます。隠蔽された利権によって、裏世界が形成され反社の拠り所になっていったと感じます。(つづく)