1週間程前、朝起きると、会社員時代に年に数回出張で訪れていた取引会社の名前が記憶に残っていました。夢の中では、周囲の人たちに村八分にされたり、無視されたりして、とても嫌な感じだったのを覚えていました。
何か人々の集団や勢力の分裂と対立があったような感じです。奈良出張で、取引会社に訪問して仕事を終えた後、時々、近くの法隆寺に参拝していました。当時の会社の場所は、奈良県大和郡山市額田部北町でした。
自分の過去世のカルマを紐解くヒントだと感じました。内観すると住所の「額田部(ぬかたべ)」が気になり、「額田部」と「額田部氏」をネットで調べました。ウィキペディアによると「額田部」のルーツは、推古天皇に関係していました。
554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であると言われます。「額田部氏」は、天津彦根命(あまつねひこのみこと)の子孫と称しており、その部としての成立は、大和と出雲の対立を背景にしているとも考えられるといいます。
天津彦根命は、天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫とされます。天火明命=徐福である故に、額田部氏は中国大陸からの日本に渡って来た、初期の渡来人の徐福の子孫だと感じます。
後期の別の渡来人には、3世紀末~4世紀に、朝鮮半島から渡って日本に来た弓月君(ゆみづきのきみ)が引連れた秦氏一族がいます。額田部の名をつけた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である「推古天皇」がポイントだと感じます。
推古天皇(554年-628年)は、日本の第33代天皇で、歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)とされます。推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行ったのが、「聖徳太子」とされています。
聖徳太子(574年-622年)は、飛鳥時代、用明天皇の皇子であり、推古天皇の摂政で厩戸皇子(うまやどのおうじ)の名でも知られています。国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学びました。
聖徳太子は、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図った他、仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めたと言われます。推古天皇と共に法隆寺を創立したとされます。
推古天皇、聖徳太子の登場する、この時代の背景を知っておくことが重要でした。587年、物部守屋が蘇我馬子に戦いで敗れて、神道派の物部氏が滅亡しました。それに代わって、仏教派の蘇我氏が実権を握ります。
神道 VS 仏教の宗教戦争の真意は、松果体摂取の利権争いです。物部氏が牛耳っていた松果体摂取の利権を蘇我氏が奪ったのです。蘇我氏は、寺院を通じて松果体摂取の利益を得ていく必要がありました。
推古天皇、聖徳太子が開基とされる法隆寺に繋がります。蘇我氏は、仏教を広げるためにシンボルとなる寺院の構築を考えたのです。それは、神社と寺院の両方で行う松果体摂取という大きな闇を広げるためのプロセスだったと感じます。(つづく)