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日本の芸能界の歴史についてネットで調べていくと《「芸能界55年体制」はこうして確立された》のサイトが目に入りました。現在の芸能事務所の原点は、19594月設立の「株式会社渡辺プロダクション」で、芸能事務所の位置付けを変革したことが始まりでした。

 

1950年代は、差別や偏見の目で見られることもあった芸能人の待遇改善と地位向上を目指したといいます。当時の芸能事務所は、タレントに仕事先を見つけ出演料の一部を受け取ることだけで、個人商店、徒弟制度的な意味合いが強かったのです。

 

それに対してマネージメントのあり方を変更しました。1人のタレントに対し数人のマネージャーを付け、何年かで担当を交代させることで、芸能事務所の仕事を組織化し、あらゆる分野に精通した人脈や知識を蓄えた人材の育成を目指しました。テレビ時代の到来にもマッチしていました。

 

195712月にNHKと日本テレビがカラーテレビ試験放送を開始しました。1959年には、NHK教育テレビ、NET(日本教育テレビ、現・テレビ朝日)、フジテレビが開局し、1960年にカラー本放送が始まりました。「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」、クレージー映画シリーズなどを自社制作し所属タレントを出演させました。

 

番組制作費や興行収入を得る仕組みを導入し、傘下に音楽出版会社(渡辺音楽出版)を設立しレコードの原盤権を保有するなど、現代における日本の芸能ビジネスのスタイルを作ったのです。ある意味、収益を上げるために、タレントに対する支配を強めていったことになります。

 

また、19574月設立された、暴力団・三代目山口組(田岡一雄組長)が経営していた「神戸芸能」は、美空ひばりの興行を担当し、独立系芸能プロのなかでも最大の規模と言われていました。美空ひばりの他に田端義夫、高田浩吉、里見浩太朗、 山城新伍、橋幸夫、三波春夫、北条喜久子らの興行権を持っていたといいます。

 

ヤクザと芸能界、全部ばらすぞ!》には、「昔から芸能界というところには、歌舞伎俳優もいれば、女郎もいれば、猿回しもいました。いわばごちゃまぜ。裏社会とも表裏一体だったから、当然本物のヤクザもいました」とあります。

 

1963年、渡辺プロの渡辺晋社長の呼びかけで、芸能プロの業界団体「日本音楽事業者協会(音事協)」が設立されました。初代会長は大物政治家の中曽根康弘、理事長が渡辺晋社長でした。当時の音事協の最も重要視された理念は、暴力団との絶縁だったといいます。

 

大手プロと暴力団にのっとられた芸能界で音事協が果たすべき義務》には、ナベプロの「渡辺社長の死後、新興プロの台頭で芸能界の勢力図は塗り替えられていき、実力を付けたある大手芸能プロのオーナーが暴力団と積極的に交際するようになったのだ」。

 

「しかも、この実力者はあらゆる暴力団関係者と交際を持ち、傘下のタレントを暴力団幹部に紹介することで、その関係を深めていった。さらに、実力者は元暴力団関係者や企業舎弟と呼ばれたが、芸能プロを持つことにも力を貸したのだ」と記されています。

 

芸能事務所は裏世界との交流が深まり、巨額な金を追い求める闇の台頭と共に、音事協を含めて芸能界の暗黒化が進んだと感じます。今の芸能界は暗黒のマックスにあるのかもしれません。それ故、三浦春馬さんら4名のタレントの方たちが自殺に偽装されて尊い生命が奪われることになったのです。

 

芸能界55年体制の5人のドンは、渡辺晋(渡辺プロ)、堀威夫(ホリプロ)、田邊昭知(田辺エージェンシー)、ジャニー喜多川(ジャニーズ)、周防郁雄(バーニング)といいます。故人の御魂を上げることを含めて、それぞれに光を降ろしました。

 

「ヤクザ」「支配」「もう終わり」「信念もあった」というワードが伴侶から伝えられました。最後に芸能界の闇が光に統合するよう意図して光を降ろすと「裏世界と表世界のハブ」と感じました。芸能界が闇を卒業して本来の純粋な姿に戻っていくことを願っています。(おわり)