深田祐介著「神鷲(ガルーダ)商人」に基づく《本の紹介1冊目~続き⑤~:神鷲(ガルーダ)商人 伊藤忠商事の介入》には、伊藤忠商事の瀬島龍三のインドネシアでの活動が記述されています。1962年、インドネシアのゲリラ軍が西イリアンに潜入して、各地でオランダ軍と衝突して、勝利を収めることになります。
その歴史的背景には、瀬島龍三がいました。瀬島龍三は戦時中、日本陸軍でニューギニア侵攻作戦を立案した人物でした。インドネシアのスカルノ大統領からの要請で、インドネシア軍の参謀に西イリアン侵攻作戦を教授していたのです。
そして、見事に伊藤忠商事は、初案件として、インドネシア国家警察への日本製ジープ等の車両1000台(800万$)を受注することになりました。瀬島龍三の軍人時代の先輩参謀・辻正信のツテを利用して、東日貿易の久保と知り合ったことが成約のカギでもありました。
《本の紹介1冊目~続き③~:神鷲(ガルーダ)商人 戦後賠償の構図》には、戦後賠償の仕組とデヴィ婦人の誕生秘話が描かれています。1950年8月、インドネシアが正式に独立を果たして、初代大統領が建国の父と言われるスカルノ大統領です。1957年10月には、岸信介首相とスカルノ大統領の間で、日本国政府がインドネシアに戦後賠償金として803億円を供与することが決まりました。
これは、ひも付き賠償金と呼ばれ、現金での供与ではなく、実質的に物資での供与になります。インドネシアは803億円で日本から物資を購入することになりました。賠償金がインドネシア政府に支払われるように見えますが、実質的にその賠償金は、日本の物資に紐づいているため、賠償金は日本の商社、建設業者へと流れる仕組です。
実際、日本からは、船舶、トラック、建設物などが、商社・建設業者を通じてインドネシアに渡ったのです。この賠償金ビジネスは、インドネシアのスカルノ大統領と日本の商社に莫大な利益をもたらしました。日本人女性好きのスカルノ大統領との太いパイプ構築のために、商社は、日本人女性を派遣しました。
500万円(現在の9000万円)と都心の一等地100坪を交換条件に、根本七保子(後のデヴィ夫人)をスカルノ大統領に対面させたのです。根本七保子は、19歳の時に赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」働いていたのですが、その際立った美貌に目を付けたのが、中堅商社の東日貿易の久保正雄社長でした。
スカルノ大統領は、大いに気に入り1959年根本七保子はジャカルタに渡りました。しばらく愛人生活を続けましたが、62年に正式にスカルノの第三夫人となり、日本国籍を除籍し、インドネシア国籍を取得して名前をラトナ・サリ・デヴィ・スカルノに変えました。これがデヴィ夫人誕生ストーリーです。
公金を不正流用し、私腹を肥やすために、インドネシアのトップとパイプを太くする目的で、大金で雇われた女諜報部員のようだと感じました。デヴィ夫人に光を降ろすと「工作員」と伴侶が伝えて来ました。《本の紹介1冊目~続き⑥~まとめ:神鷲(ガルーダ)商人 戦後賠償金の行方》には、戦後賠償ビジネスとODA利権について記載されています。
その中にある「建設プロジェクトの資金の流れ」の図表には、キックバックの割合まで示された非常に生々しい実態を描かれています。2つのルートがあり、1つは、スカルノ大統領-木下商店(岩下商店)-【岸信介】-大成建設・ホテルインドネシアです。もう1つは、スカルノ大統領-東日貿易(東方商事)・伊藤忠商事-【児玉誉士夫・河野一郎】-大林組・サリナデパートです。
スカルノ大統領に対して6%の献金、日本の政治家に対しては数%の御礼金(キックバック)と記されています。戦後賠償プロジェクトで、商社・政治家・建設会社が巨額の利益を上げた姿が分かります。資金源は、日本国民の税金です。この戦後賠償は、後にODA(政府開発援助)という形態に姿を変えて引き継がれます。
1960年代半ばには、賠償プロジェクトの実施過程で大商社が直接関与するようになります。プロジェクト受注の過程で活躍した東日貿易や木下商店は、それぞれ三井物産と伊藤忠商事に吸収されました。《安倍晋三の海外バラマキ・キックバックは5~15%》には、ODA利権のキックバックは、5%~15%ということです。
海外援助という名目で日本国民の税金である巨額の金をばら撒けばばら撒く程、相手国の権力者、日本の政治家、商社や企業の懐に大金が入るのです。このODA利権という巨悪を終わりにするためには、多くの人がその実態に目を向けて、隠されて来た真実を知る必要があります。(つづく)