10月24日(土)の夜、地下壕のネット検索をしていると左腹部に痛みがありました。場所はどこかと思案すると「広島」だと感じました。広島は、「軍都」という日本の軍隊の施設が多くあった場所でした。私が知っている広島県の地下壕は、日清戦争前に広島大本営が置かれた「広島城」でした。
2019年11月に広島の軍都関連で遠隔ワークを行っていました。大本営とは、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関です。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持ちます。
本来「本営」とは総司令官が控える場所で、これを更に仰々しい名にしたものです。広島大本営は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島県広島市の広島城内に設置された大日本帝国軍の最高統帥機関としての大本営です。
1895年に明治天皇が戦争指揮のために広島に移り、あわせて大本営も東京を離れて広島に移ってきたのです。国家元首の天皇が滞在し、臨時の帝国議会も広島で開催されたということで、一時的に広島が首都機能をもったとも言うことができます。
2014年11月の広島巡礼の旅で広島城址公園を訪れて、中国軍管区司令部の地下通信室跡に光を降ろしていました。地下通信室跡には、半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていました。昭和20年8月6日午前8時15分、原子爆弾の一閃により中国軍管区司令部は壊滅しました。
当時、女学生が広島の壊滅を通信したのが、広島の原爆被災の第一報といわれています。この際、サポートしてくれていた太陽と月の龍神たちが地下壕跡に入って浄化したのを覚えています。そこで、「どうして広島に大本営が移ったのか」という疑問が浮かんできます。
その答えをネットで調べると《旧帝国陸海軍:広島大本営跡》に、「司令部の原則として、戦地に近いほうがよいという前提で、広島が山陽鉄道の(当時の)西端だったこと、補給物資の積み出しに、宇品港(現:広島港)の存在が大きかったのだろうと考えられています。」と記載されています。
広島大本営のウィキペディアによると、1894年9月15日に明治天皇が広島大本営入りし、1895年4月27日に大本営を京都に移し、明治天皇が広島出発しています。1896年4月1日に大本営が解散されました。1894年7月25日から1895年4月17日までの日清戦争の期間だけ広島に大本営が置かれていたことになります。
1895年4月から約1年間、京都に大本営があったことも疑問です。これまでのワークや記事の流れから見ると広島大本営は、松利権(松果体利権)に関係していると感じます。日清戦争の期間、松果体の収穫、人身売買など表に出来ない秘密の出来事が行われた可能性があると思います。
ヒントや手掛かりを得るために、大本営の移転先についてネットで調べていくと、奈良県天理市の「天理御座所(奈良行宮 地下壕)」と長野県長野市の「松代大本営跡」がありました。いずれも地下壕は作られたのですが、移転は実行されずに1945年8月15日の終戦を迎えています。(つづく)