三輪山


天理御座所(奈良行宮予定 地下壕)
》には、大東亜戦争末期に、明治天皇の行宮地下壕が奈良県天理市豊田町に作られたことが記されています。1945(昭和20)5月、奈良県天理市の奈良海軍航空隊の格納壕として設営されていた一本松山の地下壕を転用し、予科練生2,000名により拡張、強化が開始されました。

 

画像を見ると一本松山の中に幾つかの地下壕跡があったことが分かります。天理御座所は、グーグルマップで奈良県天理市豊田町を調べると、天理教教祖墓地など天理教施設が置かれている場所です。天理教のウィキペディアによると、1943(昭和18)10月に約80箇所の信者詰所が旧日本海軍予科練の兵舎として徴用されたといいます。

 

柳本飛行場(大和海軍航空隊大和基地)》には、天理に残されている戦争遺跡「柳本飛行場跡」の滑走路跡、格納庫跡、防空壕跡などが紹介されています。1944915日から柳本飛行場の建設が始まり、地元の人々をはじめ、多くの人がかかわり、その中には、3000人に及ぶ朝鮮の人々の存在がありました。

 

強制連行されて就労した人、日本で生活していて集められた人などです。当時、周辺の山にはトンネルが数多く掘られており、そのトンネルを「御座所」や大本営にしようとしていたのです。《奈良の朝鮮人連行と「慰安所」跡を訪ねて》には、強制労働を強いられた朝鮮の人の証言もあり、生々しい当時の状況が記されています。

 

多くの朝鮮人労働者が強制的に連行され就労させられ、当時は慰安所もあり、植民地朝鮮の女性が性奴隷とされた悲しい歴史の跡地でもあります。兵力不足を補うため学徒が戦線へ送り込まれるなど、戦時総動員体制が強化され、戦闘員として動員された労働力の不足を朝鮮半島や台湾から補充しなければならなくなった時期です。

 

強制連行され柳本の労働に従事させられた人は、「(忠清南道)論山から釜山まで列車で運ばれ、下関からはトラックや貨車で天理まで運ばれた。何百人かいた。村からは4人が連行された。山の下に寄宿舎があり、トンネルも掘った。「慰安所」には朝鮮人女性が何十人か連行されていた。」と話しています。

 

1894年の日清戦争から始まった日本の戦争の道における大きな闇の一端が垣間見えます。ここでも、どうして奈良県天理市の地に「御座所」という大本営の拠点を置こうとしたのかが疑問になります。「海軍が柳本飛行場とその周辺を本土決戦時の重要な拠点とする計画を立てて実行していたから」とありますが、説得性に欠けると思います。

 

個人的には、天理教という宗教との繋がりがあったと捉えた方が合理的だと感じます。松果体摂取の起源は原始キリスト教です。儀式を行う宗教を隠れ蓑にすることで、松利権の秘密が維持されて来た歴史があります。菊の御紋は、松利権を有する支配者を意味します。

 

天皇をトップとする大本営が天理教と松利権を行使できるための御座所の選定だったと感じます。逆に、戦争というものは支配者の金儲けのための隠れ蓑にもつながります。戦争は、支配者の利権の拡大と行使のために利用されたとも言えます。

 

そういう意味で、現代のアドレノクロム利権にもつながる松利権は、人命よりも金という非人間的な拝金主義の極致にあるものです。天理御座所の地下壕などの土地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。光は入りました」と伴侶が伝えて来ました。奈良県天理の地が本来の姿になることを願っています。(つづく)