11月9日、スマホのヤフーページのタグが「四日市市」に変わっていて解除のサインだと感じました。四日市市の地下壕を調べると《海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)》のサイトを見つけました。地下壕のある場所は、三重県四日市市日永の南部丘陵公園の周辺です。
「第二海軍燃料廠は、すでに1943年(昭和18年)には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいっていましたが、1944年10月から日永の山中に設備の一部が移転されます。原油・製品・装置を疎開させるため、倉庫・住宅・地下工場が建設される計画でした。」
「工場は「山の工場」と呼ばれ、陶製の過酸化水素濃縮装置6基の建設と、ドイツのロケット爆弾の技術情報によるロケット推進燃料が製造される予定でしたが、完成したのは2基のみでした。」と記載されており、地下壕が未完のまま終戦を迎えたのです。燃料廠とは、軍隊直属の燃料関係の軍需工場のことです。
また、神奈川県横須賀市の地下壕の記事《横須賀の住宅街で発見された旧日本軍の「特殊地下壕」とは?》もありました。「地下壕が見つかった横須賀市太田和(おおたわ)は、横須賀市の西側に位置している。旧日本軍の武山海兵団があった近くだ。この場所なら旧日本軍が地下壕を造ったとしても不思議ではないかもしれない。現在の自衛隊武山駐屯地(旧日本軍武山海兵団)。」
「最終的に報告された太田和の特殊地下壕の規模は、高さ約2.6m、幅約2.9m、総延長約76m、体積約580立方m。2015(平成27)年3~9月にかけて、440立方m、2リットル入りペットボトル22万本分ものエアミルク、液体セメントのようなものを使い、空洞となっている特殊地下壕の埋戻し工事が行われた。」と記されています。
この横須賀の地下壕の地名には「太田(おおた)」がつくので、群馬県太田市の中島飛行機の地下壕と同じように土地の光を封印するために松取りが行われた場所だと感じます。鹿児島県志布志市、三重県四日市市、神奈川県横須賀市の地下壕の闇の統合を意図して、それぞれ光を降ろすと「いいです」と伝えられました。
《地下都市に何が遺されたか?マトゥア(松輪)島の日本軍の遺物調査が終了へ》には、根室海峡からカムチャツカ半島に連なる千島列島の中部に位置する、東京都の三宅島ほどの面積の小島の「松輪島」にある旧日本軍が作った地下要塞についてロシアの調査内容が記されています。
「島には縦横に壕、塹壕、人工的な洞窟が掘られている。島の北方は火山という自然の地形が防御壁となっていたが、後は全て日本の工兵らの手で強力な守備城砦が作り上げられている。」「ある丘の下にはおそらく司令官の官邸が置かれていたのか、地下の風呂場まであった。完全なる地下都市だ。その機能がなんであったのか、我々は結局明らかに出来ずじまいだった。」
「ここの地下には日本軍の細菌兵器ラボがあったとか、または原爆製造のベースキャンプだったなど様々な噂は流れたが、そのどれも証拠は見つけられていない。その代わり我々は空港の滑走路を見つけていた。よい保存状態で機体の昇降のためのコンクリート製のスロープが設けられている。」と記載されています。
松輪島のウィキペディアによると、第二次世界大戦が始まると旧日本海軍によって島の南東部に飛行場が建設され、守備隊が置かれ、最大7,000 - 8,000 名の兵が駐屯したといいます。《松輪島に旧日本軍が残した「幻の地下要塞」を探して》には、「戦略的に何の意味もなければ、こんな小さな島が大日本帝国軍の北海道司令部直属の指揮下に置かれるだろうか。」
「この問題はいまだに謎であり、日本側からの証言もない。それを知るはずの松輪島駐屯部隊の司令官は、他の部隊の司令官とは違い、手記を残さずに鬼籍に入った(死去した)。」と記述されています。ロシア側の松輪島の日本軍基地の存在意義に疑問符が打たれています。
個人的には、「松輪島」の名前に「松」があることから「松取り」を行うために作られたものであり、対象は千島アイヌだったと思います。「もともと松輪島には、先住民族の千島アイヌが細々と暮らしていた。ところが1930年代の終わり頃、日本の軍部がこの島を要塞とする決定を下した。建設は昼夜休みなくおこなわれ、およそ3年間続いた。千島アイヌは絶滅の淵に立たされた。」と記されています。
松輪島の地下基地を意図して光を降ろすと「入りました」と伝えられました。松輪島に関するロシア側の照会に、日本側は殆ど回答がないといいます。大本営と日本政府は、戦争を隠れ蓑とした松利権の行使と拡大の歴史を隠蔽してきたのです。(つづく)