セッションの問合せメールと過去のヒプノセラピーから「旭川」についてワークの必要性を感じました。「穢した場所は北海道旭川。念を送って人や動物の首を斬った。日本を闇にするために旭川をやる必要があった」とヒプノセラピーで伝えられていました。
クライアントの方の過去世は、ロシアの魔術師で何人かで闇のエネルギーを送っていました。当時は、首を斬るの深い意味が理解できませんでしたが、今では「松果体収穫」のためだったと分かります。術で人を操って人や動物の松取りをしていたのです。
旭川には、アイヌの聖地・神居古潭(かむいこたん)があり、アイヌと関係していると感じました。旭川市・アイヌでネット検索すると「川村カ子ト(かわむらかねと)アイヌ記念館」がヒットしました。ウィキペディアによると、川村カ子トアイヌ記念館は、北海道旭川市北門町の近文(ちかぷに)コタン内に設立されたアイヌ民族文化の保護・伝承を目的とする私設の資料館です。
1916年(大正5年)に、上川アイヌの首長・川村イタキシロマが自宅を公開する形で「アイヌ博物館」を開設しました。イタキシロマの子息・川村カ子トが測量の仕事で得た資金で拡充し、「川村カ子トアイヌ記念館」として発展させ、アイヌ文化の資料館としては日本最古のものです。
館内にはアイヌ民族が使った生活用具や衣装など、二代目館長の川村カ子トが多数収集したのも含め、約500点が展示されているといいます。川村イタキシロマ(?-1943年)は、アイヌの民族活動家で、川村カ子トアイヌ記念館の創設者です。美幌より旭川近郊・忠別川のコタンに移り住んだアイヌの一族の7代目です。
川村カ子ト(1893年-1977年)は、上川アイヌの長で日本国有鉄道の測量技手です。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めました。アイヌならではの身体能力の高さを評価した三信鉄道に請われました。
難しすぎて引き受け手のなかった天竜峡-三河川合間の測量をアイヌ測量隊を率いて敢行し、現場監督も務めて難工事を完成させました。三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事しましたが、1944年(昭和19年)に引き揚げました。Wikipediaの内容を読んで、川村カ子トは、松果体の収穫をさせられたアイヌだと感じました。
樺太や朝鮮半島に渡っていることも不可思議であり、逆にそれがヒントとなります。八雲町のアイヌである辨開凧次郎や椎久年蔵のように、和人の権力者の支配下に入り、金の闇に染められて同和化していったとも感じます。近文コタンも気になり調べると、明治期にアイヌ保護のモデル地区として、北海道旭川市緑町付近に設置されたアイヌの集落でした。
1887年(明治20年)、北海道庁初代長官・岩村通俊がアイヌの保護をうたい、旭川村と鷹栖(たかす)村の間に位置した近文の地に、永山、当麻、比布などに点在していたコタンをまとめるという政策を打ち出し、これを受けて、タナシ(現当麻町)在住のペニウンクㇽ(上川アイヌ)や他の各地のアイヌ約50戸が自主的に近文へ移住、一帯は「チカプニコタン」と呼ばれるようになりました。
過去のワークでは、岩村通俊は、罪人、朝鮮人、アイヌの人たちを強制労働させて囚人道路の建設を勧めた闇の役割の人物だったと分かっています。上川アイヌの首長・川村イタキシロマと息子の川村カ子トの御魂が光に還るよう意図して、順番に光を降ろしました。
「生きるためにやむを得なかった」「使われた怨念がある」と伴侶が伝えて来ました。2人はアイヌの長として、熊などの野生動物やアイヌの人たちの松果体の収穫を強いられていたと思います。ヤマト王権という渡来人に虐げられた熊襲や蝦夷の先住民たちと同じ境遇であり、自分と仲間を守るために他に生きる道がなかったと感じます。(つづく)