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11月21日
BSテレビで、きのこ採りをするマタギの人の番組を少しの時間、興味深く観ていました。マタギの人は、山で熊などの野生動物を狩猟するので、感覚的には山の民である「サンカ」の人だと思いました。サンカの人たちの起源は、渡来人の支配下で松果体収穫をしていた人たちです。

 

鉱山などで金などの採掘もしていました。恐らく、マタギの人たちは、熊などの野生動物の松取りをしていたのではないかと思います。もう少しマタギを知るためにWikipediaで調べてみました。マタギは、日本の東北地方・北海道から北関東、甲信越地方にかけての山岳地帯で、古い方法を用いて集団で狩猟を行う者を指します。

 

「狩猟を専業とする」ことがその定義とされるものの、現代においては単にマタギ郷として有名な土地に生まれ、猟銃を使う猟を生業とする猟師を指すのが一般的です。獲物は主に熊の他に、アオシシ(カモシカ)やニホンザル、ウサギなども獲物としていました。

 

古くは山立(やまだち)とも呼ばれており、特に秋田県の阿仁(あに)マタギが有名です。その歴史は平安時代にまで遡ります。近世以降は狩猟に銃を使うが、独特の宗教観や生命倫理を尊んだという点において、日本の他地方の猟師や近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なります。

 

マタギは漢字を当てた場合、「叉鬼」「又鬼」または「𪻆」となります。マタギの語源は諸説あって不明です。マタギが使う言葉は、日本語の言語変種で「マタギ言葉」と呼ばれます。アイヌ語の影響が強いという点については、マタギの祖先がアイヌであるためアイヌ語が基層言語となってマタギ言葉が成立したという説があります。

 

江戸時代の学者である菅江真澄(すがえますみ)も、マタギ言葉には、イヌをセタ、水をワッカ、大きいをポロという類のアイヌの単語がたくさん用いられていることを記しています。アイヌと蝦夷は、基本的に同じだと感じます。過去のワークでは、東北地方でヤマト王権の配下に置かれた蝦夷が「サンカ」となったと感じています。

 

古代蝦夷とアイヌ》には、「奥州の蝦夷はアイヌ族だった。 蝦夷とアイヌの相違は、本州にいたアイヌが蝦夷で、北海道にのこった蝦夷がアイヌであった。したがってアイヌは、日本全土の原住民ではなく、ただ東北地方の原住民だった」と記載されています。

 

ここで「阿仁マタギ」に注目してみました。阿仁町(あにまち)は秋田県の北部に位置した町で、現在は、北秋田市となっています。山深い谷に狩猟生活をする阿仁マタギの集落が点在していたほか、1309年に発見された阿仁鉱山の金、銀、銅の採掘で栄えており、銅の生産量が日本一でした。

 

秋田藩に招聘され、阿仁鉱山で鉱山技術指導をした人物が平賀源内(ひらがげんない)です。平賀源内は、江戸時代中期の本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られます。余りの多才で工作員だと感じました。

 

平賀源内は、讃岐国の白石家に生まれました。白石家は、元々、信濃国の豪族の平賀氏でしたが、後に、奥州の白石に移り、伊達氏に仕え、白石姓に改めたとされます。さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農し、源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝えられます。

 

過去のワークを含め、信濃国や白石家から、平賀源内は、金の闇を広げる役割の同和だったと感じます。恐らく、阿仁鉱山の中で、松取りなどの隠密仕事をしていたと推測します。平賀源内の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「23人いたかもしれない。工作員」と伴侶が伝えて来ました。複数の工作員が平賀源内を名乗っていたのです。

 

ワークの後から気が付きましたが、菅江真澄も江戸時代後期の旅行家、博物学者で、東北地方や北海道を行脚していることから土地を封印する闇の仕事をしていたと感じます。奇妙な形で積み重なっている巨岩があり、菅江真澄の歌碑のある森吉山(もりよしざん:標高1454m)が気になりました。

 

巨石には、坂上田村麻呂に追われた蝦夷の首長の大滝丸が積み上げたとする伝説が残されています。森吉山の巨石を含めて光を降ろすと「光は入りました。開かれたと思う」と伝えられました。秋田の地は、金の闇が置かれたと感じます。阿仁マタギの地が本来の姿になることを願っています。