TOKAI-1_and_2_NPP


日本の原子力発電所の場所を見ていくと全て海岸沿いにあります。日本の原子力発電所のウィキペディアによると、日本の原子力発電所は、運転中が33基、廃止・解体中が26基、建設・計画中が7基です。その内、現在稼働している原発は、福井県の大飯原発(2)、高浜原発(1)、佐賀県の玄海原発(2)、鹿児島県の川内原発(2)です。

 

何故 日本の原子力発電所は海岸沿にあるのか》には、海岸沿いの原発の理由が記されています。「理由は一言で言えば「海水で原子炉を冷やさなければならないため」です。(日本の商業用原子力発電所は軽水炉であるため)誤解があるといけないのでもう少し説明すれば、原子炉自体は真水で冷やしていますが、その冷やしている装置を海水で冷やしているというのが正確でしょうか。」とあります。

 

「この為、日本の原子力発電所は弱い破砕帯の上に立っているのが現状です。」とも記載されています。日本の原発が海岸沿いに置かれているのは、船で運搬するからだと感じます。また、《ボアオ・アジア・フォーラムが開催される中国・海南島に潜む深い闇》にあるように、中国・海南島で行われている潜水艦による搬送の可能性もあると見ています。

 

エネルギー的には、日本列島の北の北海道から南の九州・鹿児島まで、陸地の端を押さえることで、闇にすることが出来ます。日本の原発立地場所は、本来、自然豊かな光の場所です。そこで、松果体収穫を行うことは、光の場所を大きな闇で封じることになります。日本の原子力発電所の歴史を見ると、原発の起点の時から米国主導でアドレノクロム工場を作る計画だったと感じます。

 

Wikipediaには、「1945(昭和20)815日の第二次世界大戦終戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし、1952(昭和27)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、1953年にドワイト・D・アイゼンハワー大統領が国連総会で「平和のための原子力」演説を行ったことも契機となって再開されることとなった。」

 

「日本における原子力発電は、1954(昭和29)3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。1955年(昭和30年)12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった。」

 

「基本法成立を受けて1956(昭和31)1月に原子力委員会が設置された。初代の委員長は、読売新聞社社主でもあった正力松太郎である。正力は、日本の「原子力の父」とも呼ばれている。有馬哲夫によると、正力の影響力の背後にはCIAの関与があったとする情報もある。」と記載されています。今でいうDSが日本をアドレノクロムの中核工場にして封じる計画をしたと感じます。

 

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)1026日で、東海村に建設された動力試験炉であるJPDRが初発電を行いました。これを記念して毎年1026日は原子力の日となっています。日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電です。

 

右肩の痛みのサインで導かれた東海原発は、日本の原子力発電の起源であり、重要な場所だったと分かります。現在、東海発電所は廃炉作業中であり、東海第二発電所が運転中とされます。東海第二発電所は、茨城県那珂郡東海村にある日本原子力発電の原子力発電所です。首都圏にある唯一の原子力発電所で、日本初の百万kW級軽水炉です。

 

東海第二発電所の周辺の解除ポイントをグーグルマップで探していきました。村松虚空蔵尊、村松大神宮、豊受皇大神宮、富士大権現神社、鐘馗(しょうき)霊神、素鵞神社(そがじんじゃ)をピックアップしました。「村松海岸」の地名や水戸八景の「村松晴嵐」の碑から「松」がついており、東海原発の場所は、昔から松取りの場所だったと感じます。(つづく)