TobetsuGawa2005-3


当別町は、北海道石狩振興局管内北東部にある、生花、米の生産が盛んな自然豊かな町です。主要な市街地は札幌市都心から20-30km程です。石狩振興局管区の北部に位置し、町域は南北に細長くなっています。北部は山間部で石狩川の支流である当別川が、青山ダム・当別ダムを経て石狩平野へと南下します。町名は、アイヌ語の「トペッ」(沼・川)に由来します。

 

沼から来る川を意味し、当別川を指します。現在の水田地帯がかつて沼だったことにより、当別町の地は水の地であることが分かります。1872年、仙台藩の岩出山領主だった伊達邦直が元家臣などとともに当別での開拓を開始しました。同じ伊達家の旧宇和島藩も開拓に加わり、これが姉妹都市縁組の礎となります。当別町の大麻栽培の情報は《亜麻産業の今昔物語》にありました。

 

「開墾から 20 年はソバ、麦、豆、ヒエなどの食糧の自給が先決でしたが、明治7年に大麻の栽培が始まると、当時唯一の換金作物として急速に作付けが増えていきました。その理由は土地が適していた ことと、開拓使の奨励作物で価格が良かったこと、交通事情が悪い時代に運びやすかったことでした」と記されています。当別町では、「大麻」と「亜麻(あま)」が栽培されていました。

 

亜麻は、一般に大麻よりも柔らかい繊維とされ、通気性・吸湿性に優れて肌触りが良いことから織られて高級な衣類などになります。大麻は縄や麻袋など耐久性の必要な用途にも使い、衣類としても庶民的な繊維とみなされますが、上布のように上質な織物にも使われます。表向きは、縄などの軍用品製造のため、繊維収穫のための麻栽培とされますが、実質的に麻薬用途でも収穫していたと感じます。

 

日本一のアヘン生産地だった紀州和歌山》にありますが、戦前の日本が世界一の麻薬生産国であった暗黒の歴史は隠蔽されてきました。表の目的とは異なる日本政府の資金集めのための北海道開拓があったのです。1935(昭和10)には日本のモルヒネ生産額は世界4位、ヘロイン生産額は世界1(世界の生産額の4)となり、コカの葉から作られるコカインの生産額も日本は世界1位でした。

 

年表.北海道の大麻栽培史》には、「1892(明治25)年 北海道製麻が大麻200ha、亜麻300haから採種〔作付面積479ha]」と記載されています。北海道製麻は、1887(明治20)に、北海道庁の肝入りで、当別村につくられた軍需用麻製品の製造会社です。伊達氏は本業奨励のため、工場用地と して所有する六軒町の土地 27.7haを無償提供し、明治276月、製線工場が誕生しました。

 

当時の村の基幹産業でシンボルと もなった工場は100人以上の従業員を数えました。《亜麻産業の今昔物語》の写真の説明書きから「薬」だけではく「松」も収穫していたと感じます。「写真2:大成寺(真宗大谷派)境内に残る製線工場慰霊碑(大正37月建立)には劣悪な労働条件のため、結核などで命をおとした44名の名前が刻まれています」とあります。

 

これまでのワークから、結核などの感染症とワクチンは、松果体収穫の隠れ蓑とされてきたことが分かっています。北海道開拓は、アイヌや朝鮮人の労働者だけではなく、開拓民の人たちも松取りの犠牲になっていると感じます。北海道の伊達市と当別町は、共通した開拓の歴史を持ちます。伊達市は明治3年に仙台藩亘理伊達家の領主・伊達邦成(1841-1904)が家臣と共に移住し開拓しています。

 

当別町は、明治4年に仙台藩岩出山伊達家の領主・伊達邦直(1835-1891)が家臣と共に移住し開拓しています。兄弟である伊達邦直、伊達邦成の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」「ニビル。松取り」と伴侶が伝えて来ました。やはり開拓の名の下で北海道の地が、金のために松と薬の収穫場として暗闇にされて来たことが分かります。

 

北海道製麻会社は、現在は東京都中央区に本社を置く帝国繊維になっています。帝国繊維の社長・白岩強と当別町の町長・宮司正毅(元三菱商事顧問)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「サンカ」「反社」と伝えられました。隠された闇で封じられて来た当別の地が開かれて、本来の光となることを願っています。(おわり)