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18日、朝起きると、昔働いていた職場の後輩が夢に出てきたのを覚えていました。その後輩の名前の「大山」が強く印象に残っていました。「何だろう」と思って過ごしていると、左奥の歯痛と右前頭部の強い頭痛に見舞われました。相当、強烈なサインなので、重要なワークだと感じました。左奥歯の場所は、福島の辺りだと思いました。右前頭部は、岩手か青森の周辺だと感じました。

 

痛みを治めるためにも、取り急ぎ「大山」のヒントを頼りに、歴史上の人物をネット検索していきました。幾人かの大山姓の中で「薩摩の大山巌(おおやまいわお)だ」と確信しました。大山巌(1842-1916)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家です。称号・階級は元帥陸軍大将で、大警視、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族院議員を歴任しました。

 

西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたります。薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれていました。ウィキペディアを読んでいくと大山巌は自分と縁があると感じました。また、大山巌の画像を見ると昔の職場の後輩の雰囲気に似ていました。大山巌は、戊辰戦争で新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦しました。

 

維新後の1869(明治2)、渡欧して普仏戦争などを視察します。1870年から1873年の間はジュネーブに留学しました。西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧しました。西南戦争では政府軍の指揮官として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦いました。大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかったのです。

 

ただし、西郷家とは生涯にわたって親しく、西郷従道とは親戚以上の盟友関係にありました。《西郷隆盛の生誕地から繋がる松利権に関わる支配層の著名人》から、鹿児島県加治屋町に生まれた薩摩藩士は松利権を有していたことが分かっています。会津戦争などの戊辰戦争や西南戦争は、松取りのための戦いであり、大山巌は、その裏の目的を認識していたと感じます。

 

西南戦争で敵対した西郷隆盛とも裏で繋がっていて、松取りという共通目的がある故に、当然、筋書が出来ていたと思います。西郷隆盛の弟・西郷従道と懇意にしていたのは、1つの証です。西南戦争は仕組まれた戦いだったのです。《奄美大島の黒糖地獄から繋がった西郷隆盛のロシア生存説》にありますが、自害したとされる西郷隆盛がロシアで生存していたというのが真実だと感じます。

 

大山巌などの松利権を有する薩摩藩士は、欧州の闇と米国の闇の2大勢力の対立構図における、欧州勢力(ロスチャイルド、天皇派)です。大山巌が再婚した後妻・大山捨松(旧姓・山川さき)がキーパーソンでした。大山捨松(1860-1919)は、会津若松生まれの華族、教育者です。日本最初の女子留学生の一人であり、看護師教育・女子教育への支援を行いました。

 

父は会津藩の国家老・山川尚江重固で、25女の末娘です。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英が親代わりとなりました。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物でした。会津戦争で敗北した会津藩は、下北半島最北端の不毛の地の斗南藩となり、山川家では、末娘さきを函館に出しました。

 

フランス人の家庭に引き取られ、時期は不明であるがアメリカ人宣教師に預けられたといいます。その後、官費留学の女子留学生募集に応募した、さきを含めた5人全員は、旧幕臣や賊軍の娘で全員が合格となり、アメリカの地に渡りました。約10年間の米国留学後、帰国して、大山巌と結婚しました。ドイツ語、フランス語を流暢に話す大山巌と英語、フランス語、ドイツ語が堪能な捨松は、お互い相応しい相手でした。

 

捨松は、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれ、慈善活動の人でもありました。米国赤十字社に関心を寄せていた捨松は、ニューヘイブン病院で2ヶ月実地看護に従事し、看護婦免許を取得していました。1886年、日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)の設立に協力しました。1887年に日本赤十字社の後援団体の立ち上げで「日本赤十字篤志婦人会」の発起人にもなっています。

 

日清・日露の両戦争では、大山巌が参謀総長や満州軍総司令官として、戦略上の責任者という重責を担っていました。捨松はその妻として、寄付金集めや婦人会活動をし、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなしました。大山捨松は、近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けの存在でした。大山捨松は、2大勢力の米国勢力(ロックフェラー、米国派)でした。

 

欧州勢力(ロスチャイルド、天皇派)の大山巌と米国勢力(ロックフェラー、米国派)の大山捨松が結婚することで、会津に同和勢力が形成されたのです。同和勢力は、2大勢力を戦わせて金の利益を得る勢力で、十字架の中心となります。大山巌と大山捨松の御魂が上がるよう光を降ろすと「工作員」「いいです。工作員」と伴侶が伝えて来ました。医療は戦争に付随するものとして生まれました。

 

本来、医療は、負傷した兵士を助けるための役割です。しかし、実際には表裏があり、裏の目的は、松果体収穫でした。戦争で傷つき弱った人たちから秘密裏に松果体成分を収穫していたのです。日本赤十字が設立された意味がそこにあります。時代が流れ、松果体収穫は、戦争の場から医療の場に変化していきました。また、松取り工作員としての2人は、会津の地を同和の闇にするための役割だったのです。(つづく)