大山巌は、栃木県那須塩原市と静岡県沼津市に別荘を持っていました。那須塩原市の公式サイトには、「大山は、1881年(明治14年)に従兄の西郷従道と共に加治屋開墾場を開き、1901年(明治34年)に両人で分割して、大山農場が発足した。大山農場発足後間もなく、農場事務所の敷地内に和風別荘が建てられ、その後、農場で焼いた煉瓦(れんが)を利用して、素朴で重厚な造りの洋館が、和館と廊下でつなぐ形で隣接して建てられた。
洋館の建築年は不明だが、農場で赤煉瓦の製造を行っていたのが1903年から7年間であり、1905年には皇太子(のちの大正天皇)の行幸を仰いでいることから、そのころには完成していたと考えられる」と記されています。「農場での赤煉瓦の製造」は、燃やすことで遺体処理をした松果体収穫の客観的な証です。那須の地には、天皇の別荘である御用邸や御料牧場もあります。
静岡県沼津市に別荘については、《龍さんのプログ》に情報がありました。「1889年(明治22年)東海道線の開通は風光明媚な沼津に、薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩大木喬任文部大臣らの別荘が建てられた。1893年(明治26年)沼津御用邸が造営されると千本から牛臥・静浦・内浦にかけては政財界要人の別荘地として脚光を浴び幾多の別荘が建てられた。
かつて沼津は日本の政界・財界人の一大保養地・別荘地だったんです!大山巌陸軍大臣別荘は、日露戦争の際、陸軍参謀本部となった別荘。前は砂浜から高い石垣、裏は山。別荘の東は牛臥山に抱かれ、南西の正面は山と山に挟まれた砂浜、そして静かな内海駿河湾、こんな場所に別荘はあった」。那須や沼津は、松利権を有する皇族や政治家などの権力者が松果体摂取のための場所だったのです。
《光の地を封じる闇の仕組として皇族別荘が集中した葉山の地》にありますが、葉山のような重要な光の場所を封印するために松果体摂取を裏の目的とした皇族の別荘がつくられました。これが日本の光の地を封じる1つの闇の仕組となったのです。一方で、大山巌の妻・大山捨松の実家・山川家は、捨松と同様に、松果体収穫のための工作員の家系だったと感じています。大山捨松には、2人の兄と2人の姉がいます。
兄:山川浩(ひろし、陸軍少将、男爵)、兄:山川健次郎(けんじろう、東京帝国大学総長、男爵)、姉: 操(みさお、明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官)、 姉: 二葉(ふたば、女子教育者)の4人です。山川浩(1845年-1898年)は、明治の日本の軍人で、旧会津藩士、最終階級は陸軍少将です。幕府の遣露使節団の一員としてフランスへ渡航し、陸路プロシアなどを経てロシアを訪問しました。
戊辰戦争、西南戦争に従軍しました。山川健次郎(1854年-1931年)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者で、男爵、理学博士です。斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生に選抜されジャパン号で渡米し、明治8年(1875年)、イェール大学で物理学の学位を取得し帰国しました。東京帝国大学の総長、九州帝国大学の初代総長、京都帝国大学の総長を歴任しました。
少年期に白虎隊に入隊していた時の経験を元に著した戊辰戦争を会津藩側の立場から見た「会津戊辰戦史」は死後に出版されました。山川二葉(1844年-1909年)は、日本の教育者です。お茶の水女子大学の前身である女子高等師範学校の寄宿舎長、高等師範学校舎監、女子高等師範学校舎監及び教諭でした。
山川操にはwikiがなく、《Beautiful World》には、ロシアに留学してフランス語を習得したとあります。
山川操は、その語学力によって、宮内省御用掛として出仕し、明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官となりました。山川家は欧州勢力と米国勢力の両者の工作活動を成しており、天皇家との繋がりも有していたのです。大山巌・捨松夫妻が天皇、皇族との繋がりを持って松利権のための裏の仕事をしていたことが垣間見えます。会津の地に置かれたのは同和の闇の役割は大山巌・捨松夫妻、山川家が代表でした。
しかし、会津の地には、松取り工作員としての同和の闇の役割をした著名人が他にもいます。日本の社会福祉の母・瓜生岩子(うりゅういわこ)と女子教育の先駆者・海老名リンです。瓜生岩子(1829年-1897年)は、明治時代の社会事業家で、孤児・窮民の救済、授産指導などに尽力しました。東京市養育院の幼童世話掛長に就き、若松、喜多方、坂下3ヶ所に貧児を養育する育児会を設置しました。
福島瓜生会を設立し、仏教徒による福島鳳鳴会を組織、貧困者の救済に尽力します。鳳鳴会は育児部を独立させて、のちの福島育児院となります。社会福祉を隠れ蓑として松果体収穫の裏の仕事をしていたと感じます。海老名リン(1848年-1909年)は、日本の教育者です。福島県で保母の資格を取得した最初の人物であり、会津地方の幼児教育、女子教育に功績がありました。
1888年(明治21年)、リンは霊南坂教会で綱島佳吉から受洗しキリスト教徒となります。知り合いから幼稚園を任されたことがきっかけで幼年教育に携わるようになり、若松幼稚園、会津女学校(現在の葵高等学校)を設立しました。キリスト教の裏の奥義が秘密裏に松取りを行うことであり、キリスト教が幼児教育や学校教育に携わるのはこのためです。松果体収穫は金儲けであり、宗教、教育、福祉が隠れ蓑となります。
同和の闇は、裏の汚さを隠すために表を清く装う深い闇です。本当は金儲けの目的であるのに、弱者を援助するという見た目を繕い装う嘘です。現代社会において慈善活動や福祉活動の多くが同和の闇に成っています。戊辰戦争で敗れ、逆賊のレッテルを貼られた会津の地である故に、金を握るための同和の闇が深くなったと感じます。会津の地に本来の純粋さが蘇ることを願っています。(おわり)