4月10日、朝から左足太ももの裏側に痛みがありました。左足は鹿児島県の薩摩半島であり、太もも辺りはその真ん中辺りだと思いました。グーグルマップの詳細地図を観ていくと「伊集院(いじゅういん)」の地名が気になりました。伊集院のウィキペディアには、「伊集院は鹿児島県の地名。鎌倉期から戦国期にかけて薩摩国にあった院名であり、江戸時代にあった薩摩藩の外城の名称でもある。
伊集院という名称は、イスノキが多い地であり、平安朝の租税である稲穂を貯蔵する倉院が置かれたことから、「いすいん」と呼ばれるようになったことに由来する。現代でも中世の伊集院の区域にある日置市伊集院地域(旧伊集院町)及び鹿児島市松元地域(旧松元町)を中心に通称地名として使用されている。中世には島津家の傍流である伊集院氏の領地となり、現在の日置市伊集院町大田にある一宇治城を拠点としていた」とありました。
「伊集院町大田」の「大田(おおた)」は、過去のヒプノセラピーで「光のエネルギーが隠されている場所」と伝えられていました。松元町の「松」があることから、伊集院は、光の地を封じるための松取り場所だったと感じます。松元町のwikiには、「律令時代には当地域は国衙領として日置郡の郡司の支配下にあったはずであるが、建久8年(1197年)の「薩摩国図田帳」によると満家院、伊集院、市来院及び日置荘から成立しており、伊集院の領域に属していた」とあります。
「院(いん)」とは、「元の意味は高い垣に囲まれた大きな建築物のことで、そこから以下のような意味を表す。宗教的な「院」-真言宗・天台宗などの日本密教で用いられる胎蔵曼荼羅を構成する12の区画に対する名称。歴史的な「院」-皇室 太上天皇(上皇・法皇)、またはその院号。当初は上皇や法皇の御所のことを指したものが、のちにはその主自身をも表すようになった」と記されています。
これらを総合すると、伊集院の「院」とは、天皇や朝廷が地方に所有する荘園のようなもので、「垣根で囲われた松果体収穫の場所」と感じました。伊集院の地に居住した氏族が伊集院氏(いじゅういんし)となります。伊集院氏は、「日本の氏族。著名な一族として薩摩島津氏の一族が挙げられる。島津氏第2代当主・島津忠時の七子・忠経の四子・俊忠が薩摩国日置郡伊集院地頭職を得たことから始まる。
伊集院氏は紀貫之に連なる紀姓の一族であるが、実際に「伊集院」を名乗ったのは俊忠の子、久兼からとも言われている。一族の数は島津氏支流の中でも突出して多く、家老に上り詰めた人物もいれば、足軽身分にまで身を落とした者まで多岐に渡る。明治時代の元勲である伊集院兼寛、伊集院五郎もこの支流の出身と思われる」と記されていました。伊集院氏は、松取り専門の氏族だと直感しました。
さらにヒントがありました。「第5代・忠国の時、南北朝時代が本格化する。当初忠国は島津宗家とともに北朝方にあったが、途中南朝方に加勢し入来院氏ら渋谷五族(高城氏、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏)、菱刈氏を糾合、島津宗家と争いを繰り広げている」と記載されています。伊集院氏は、途中から南朝に加勢したので、松果体収穫(松取り)のための工作部隊だったと感じます。
伊集院氏のワークの対象として家祖の伊集院俊忠と海軍軍人の伊集院五郎を選びました。伊集院俊忠(生没年不詳)は、鎌倉時代中期、薩摩の人です。薩摩島津氏の一族で、伊集院氏の初代当主です。薩摩守護島津家2代忠時の七男・忠経の四男で、伊集院地頭職を得たことを契機に伊集院へ移り住みます。島津家から古城を賜り、それを俊忠が改修したものが内城と伝わります。
伊集院五郎(1852年-1921年)は、日本の海軍軍人です。薩摩藩士の子として生まれ、1877年(明治10年)の西南戦争に参戦します。イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも博識でした。下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、伊集院信管を開発しました。この信管は日露戦争で連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃破する大きな要因となりました。
そのため伊集院は「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われています。伊集院俊忠と伊集院五郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松専門」「いいです」と伴侶が伝えて来ました。やはり伊集院氏は松取り専門の工作部隊でした。過去のワークから西南戦争、日露戦争などの戦争は松取りのために裏で仕組まれていたと感じています。伊集院五郎は、海軍軍人として先祖の工作員の仕事を引継いでいたと感じます。(つづく)