伊集院氏の居城は、一宇治城(いちうじじょう)です。ウィキペディアには、「一宇治城は、薩摩国伊集院(現・鹿児島県日置市伊集院町大田)に存在していた中世山城(日本の城)。鎌倉時代に伊集院氏によって築城されたとされる。その後、本家の島津氏を凌ぐと言われた伊集院氏の権力を背景に拡充されたが、1450年(宝徳2年)3月、島津忠国は伊集院一族を追放、以後、島津氏配下の城となった。
1536年(天文5年)3月、島津家中の統一を目指していた島津忠良・貴久親子は先祖代々の居城であったが薩摩国西部にあり不便であった伊作城から、薩摩国中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指す。1545年(天文14年)、北郷氏、樺山氏など島津氏の有力分家の支持を得た貴久は、この城で薩摩国・大隅国・日向国3カ国の太守となり、悲願であった島津家中の統一を果たすのである」とあります。
一宇治城を宗家の島津氏に奪われた伊集院氏のその後の情報を探すとwikiには「伊集院熙久は城を脱出して肥後に逃亡した、といわれているが詳細は不明」と記されています。松取り工作員の役割である故に、伊集院氏は、意図的に表世界から消えて裏世界へ潜んだと感じます。表世界から消えた武将は他にもいます。源平合戦を終えた源氏・平氏にも松取りのための工作部隊が存在していました。
平氏で松取り専門だったと感じているのは、平清盛の異母弟・平教盛(たいらののりもり)です。平氏の落人として兵庫県や高知県に伝説がありますが、定かではありません。源氏では、源義経が松取り工作員だったと感じています。源義経は、異母兄の源頼朝の追及を受けた藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃したとされていますが、松取り工作のためでに生延びて裏に回ったと見ています。
蝦夷地(北海道)に義経神社など義経ゆかりの場所があることがヒントになります。こうした一度死んだとされて生延びることを「二重死」と呼んでいます。真実を巧妙に隠蔽するためにも、松果体収穫(松取り)の闇の仕組には、この二重死が利用されて来たと思います。一宇治城は、標高144mの城山という自然の山を利用して築かれています。 大小30個あまりの曲輪(くるわ)から構築されています。
主な曲輪に「神明城」「伊作城」「中尾曲輪」「釣瓶城」「弓場城」「護摩所」「南之城」「上平城」があり、それぞれの曲輪は独立性が高い点は畿内の近世城郭と異なる点です。曲輪とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称です。曲輪の原点は、「院」と同様に、松取りのための石垣や柵で囲った縄張りと捉えています。一宇治城に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松」と伴侶が伝えて来ました。
一宇治城で松果体収穫が行われていました。一宇治城に限らず、日本の城は、松取りを行うための施設だったのです。一宇治城は、また、1549年(天文18年)9月に島津貴久とフランシスコ・ザビエルが対面し日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所として著名です。《グルコミ》には、城山公園(一宇治城跡)の画像の中に「太守島津貴久・聖師ザビエル會見の地」の石碑に「ケルト十字」がありました。
やはり薩摩島津氏の丸十字の家紋は、ケルト十字に由来すると感じます。ネット情報には「キリスト教の十字架はドルイド教のケルト十字がルーツです」の記載があります。ケルト十字の「十字」は、2大勢力を戦わせることで、「丸」は、囲って自分のものにするエゴを意味していると見ています。すなわち、「戦わせて松を取る」という意味だと感じます。《世界初の電車を製造したドイツのシーメンスと人身御供の儀式のドルイド》にドルイドの記述があります。
過去のワークからロスチャイルドを代表とする欧州の闇の源流は、ドイツに潜んだ「ドルイド」と分かっています。ドルイドも二重死を利用して表から裏に潜ったのです。《RAPT》には、「日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。」の中で、大本の出口王仁三郎に言及しており、ドルイドが強い霊力を使って支配を司るプレアデスのワニの宇宙人に関係していると感じます。
伊集院町のウィキペディアに「大田発電所」の記載がありました。「大田(おおた)」の地名は「大きな光のエネルギーが封印されている場所」です。《かごしまの旅》には丸十字の家紋のある大田水力発電所の画像が掲載されていました。「串木野芹ヶ野金山のための大田水力発電所」の項目の中に、「大規模な金山の近代化を図った五代龍作(五代友厚の養子)が、串木野芹ヶ野金山に電気を供給するために建設させた発電所です。
当初の出力は250wで、神之川の水力と落差を利用して発電を行いました。ヨーロッパ風の石造建造物で、南側には六角形の塔がついていて、屋根壁中央には島津家の家紋が施されています。島津家が建設した発電所のうち、唯一、明治期の姿を留めている発電所でもあります」と記されています。大田水力発電所は、1908年(明治41年)に建設されています。過去のワークから、金山などの鉱山では松取りが行われていたと分かっています。
神之川の水のエネルギーと大田の光を封じるために松取りの闇が置かれたのです。ネット情報によると、五代龍作は「久里家に生まれる。明治15年文部省留学生として渡英、ロンドン大学でケデーに機械工学を学び、18年帰国し東京大学教授となる。19年辞任し五代武子と結婚、婿養子となり養父・友厚の事業を継ぐ。半田銀山ほか、鉱山事業に力を注いだ。また島津家の鉱業館長などを務めた」とありました。
五代龍作の御魂が上がるよう光を降ろすと「金。松。中国」と伝えられました。やはり金山で松取りをしていたようです。大田発電所と神之川に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」「OKです」と伴侶が伝えて来ました。伊集院氏は、薩摩島津氏の裏の闇の仕事を担っていた氏族であり、薩摩藩が欧州の闇の勢力として松利権を支配する源流だと見ています。薩摩の地が開かれて本来の光の姿になることを願っています。(おわり)