4月19日、午前中から左側奥歯に痛みがありました。地図を観て感じると「新潟県加茂市」だと思いました。光を降ろすワークのためには、対象をよく知る必要があり、加茂市のウィキペディアを調べました。加茂市は、新潟県の中央部に位置する市です。市街地は三方を山に囲まれ、加茂川が貫流しています。都市の起源は平安時代に遡り、青海神社の鳥居前町として栄えたのが始まりです。
古くから京都との関わりがあった事や中心街の落ち着いた町並みであり、「越後の小京都」とも呼ばれました。726年に青海神社が創建され、794年に京都の賀茂神社の社領となりました。京都・加茂神社の社領は、「松取り場」を意味していると感じます。伊勢神宮や加茂神社などの大きな神社は、地方に荘園や領地を有しており、そこで松果体収穫が行われて来たと見ています。
グーグルマップを使って、加茂市の詳細地図で、当時の松取り場所がどこなのか探していくと、青海神社、貴船神社、山神社が含まれる「加茂山公園」だと感じました。ネットで調べると《姫ノ城 古城址狂が行く!》に行き当たり、加茂山公園を含む山塊に「姫の城」があったことを知りました。姫の城は、薩摩の伊集院氏の居城であった「一宇治城」と同様に自然の山に石垣の曲輪(くるわ)がある城でした。
「『城』とは、戦国末期に競って建造された、高石垣に多重の天守を伴った城郭のイメージが強烈だからであろう。中世に於ける越後の城(要害)にはこれらの城は一城も無い。「三条市史」に描かれた縄張り図でさえこの様な簡略な縄張りであり、周辺の遺構は描かれていない」と記されています。やはり曲輪の山城は、松取りの縄張りのための場所を意味していると感じます。この時のワークは自分だけで行いました。
姫の城の松取りの闇の統合を意図して光を降ろすと、足が温かくなりOKだと分かりました。それから3日後の午後に、再び左側の奥歯の所に強い痛みを覚えました。すぐに、加茂市の現在の松取りの場所に光を降ろす必要があると感じました。現在の松取り場は、殆どが病院や福祉施設などの医療施設に変わっています。地図とネットで加茂市の病院を探していきました。
歴史が古い「新潟県立加茂病院」を選びました。新潟県立加茂病院は、新潟県加茂市にある医療機関です。1943年12月1日、日本医療団新潟県支部加茂奨健寮別館として開設されました。1946年7月1日、日本医療団加茂病院となります。1949年11月1日、県立加茂病院として発足しました。新潟県立加茂病院の院長と病院棟に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
また、賀茂川と水源である粟ヶ岳(あわがたけ:標高1293m)にも光を降ろしました。加茂市を調べる過程で《自治総研通巻372号 2009年10月号》が目に留まりました。「加茂市は田中角栄の後援会である「越山会」の公式な発祥の地とされる」と記されていました。元総理大臣である田中角栄の後援会「越山会」の発祥地が「新潟県加茂市」だったのです。
田中角栄元首相は、1972年9月、現職の総理大臣として中国(中華人民共和国)の北京を初めて訪問し、日中国交正常化を成し遂げました。天皇派(欧州ロスチャイルド)と米国派(米国ロックフェラー)の2大勢力の構図では、天皇派(欧州ロスチャイルド)の勢力の人物だと感じています。田中角栄の弟子・小沢一郎について《米国同和の闇と繋がる日本の与党と野党の見せかけの対立構図》で言及しています。
ワークの中で、小沢一郎の父・佐重喜は、ロスチャイルドの工作員だと分かりました。小沢一郎が田中角栄元首相の配下に入ったのは、自然の成り行きでした。田中角栄と越山会について、さらにネットで調べていきました。越山会は、日本の政治団体です。田中角栄の後援会として1953年に正式に発足し、1990年代初めに解散しました。1953年の第26回衆議院議員総選挙で田中は4回目の当選を果たします。
越山会はその直後、田中の要請で加茂市で田中の上官であった片岡甚松(後の越後交通社長)、またそのおじで材木商の菊田次郎や旧友を中心に加茂市80名、下田村83名、計163名で発足しました。1960年10月に越後交通が発足すると、越後交通本社に越山会の本部がおかれ、越山会全体の事務を取り仕切る秘書課が設けられました。
秘書課は得票率という概念を持ち込み、選挙の翌日か翌々日には各支部にパーセンテージとして配られ、各支部は得票率を競い合って集票活動にさらに熱心になりました。新潟3区に各支部が設置され、ピラミッド体制の官僚統制的集票マシーンと化した、強力な支援体制が構築されました。田中角栄と繋がった加茂市には、古くから権力者に引継がれて来た松利権が関わっていると感じました。(つづく)