RIKEN_building_in_Taisho_period


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30日、柏崎刈羽原発と田中角栄の関連記事を書いていると、渋沢栄一が設立者になっている理化学研究所について、松システムの観点から調査とワークを行う必要性を感じました。国立研究開発法人理化学研究所(理研)は、埼玉県和光市に本部を持つ国立研究開発法人です。アジア最初の基礎科学総合研究所として、渋沢栄一らによって1917年に設立されました。

 

物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う日本国内では唯一の自然科学系総合研究所です。明治維新後、若い科学者を留学させて、アジア最初の基礎科学総合研究所である理化学研究所として設立されました。1913(大正2)、高峰譲吉(たかみねじょうきち)らが「国民科学研究所」構想を唱え、渋沢栄一らがその構想について議論を行いました。

 

高峰譲吉が気になりました。高峰譲吉(1854-1922)は、日本の科学者、実業家で、名誉工学博士・薬学博士です。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成しました。製薬会社・三共の創業者でもあります。1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれます。

 

翌年、父の学問所「壮猶館(そうゆうかん)」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住します。1865年、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868(明治元年)、京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学びます。工部大学校(東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業します。

 

1880年からイギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省します。1884年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約し、1887年に結婚、1890年に渡米しアメリカへ永住することになります。高峰が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していました。

 

この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功し、世界で初めてホルモンを抽出した例となりました。アドレナリンはアナフィラキーショック治療や昇圧剤、止血剤として用いられ、医学の発展に大きく貢献しました。アドレナリンは、アドレノクロムの前駆体であることは知っていました。化学的には、アドレナリンを酸化するとアドレノクロムになります。

 

アドレノクロムは若返りの高級麻薬とされます。アドレナリンは、牛などの動物の副腎から抽出精製されます。ネットでアドレノクロムの製法を検索していくと《いつかどこかで》を見つけました。英文サイト《UKALAKURT》の和訳がベースですが、現実的なアドレノクロムの採取や製法についての情報が書かれています。「アドレノクロムの品質と強さは、それが収穫された人の年齢と死の時に放出されるアドレナリンの量に依存する」

 

9歳未満の子供の拷問と恐怖によって、最高品質のアドレノクロムが得られることが知られている」「犠牲者が殺された後、化学物質は首の背後から吸い取られます」「世界的に有名な3Mの会社がアドレノクロム作成の特許を取得していることがわかった 。この特許も失効している。とても興味深いです」とあります。ネットでよく見るアドレノクロム製品は、褐色のアンプル瓶に入った液体(1g・約22万円)です。

 

このアンプルの液体製品は、最高級のアドレノクロムです。ネット情報では、子供を虐待して眼球からアドレノクロムを採取するといいます。それとは別に汎用製品として錠剤があり、アドレナリンの酸化によって生成されるアドレノクロムだと見ています。アドレノクロムの前駆体であるホルモンとしてのアドレナリンを発見して、製法の特許を取得した高峰譲吉は、技術面で松システムの構築に寄与した重要人物だと感じます。

 

また、《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》には、松システムの中核が加賀藩(石川県)であるとされ、まさしく三共の初代社長である高峰譲吉は該当します。理化学研究所の構想者・創設者の高峰譲吉、現理事長の松本紘(1942-)に光を降ろすと「途中でトカゲが入った。松喰い」「上級トカゲ。松」と伴侶が伝えて来ました。理化学研究所はアドレノクロムの源流だと感じます。(つづく)