波多野氏の家紋の「丸十字」は、原始キリスト教の秦氏の十字架の「十」と曹洞宗の禅の「○」を組合せたもので、キリスト教と仏教が裏では繋がっていたと感じます。永平寺の他に福井県でもう1つ気になっていた寺社がありました。「平泉寺白山神社」です。平泉寺白山神社は、歴史的に強大な僧兵集団を有していたことが分かっています。
平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社です。養老元年(717年)、泰澄によって開かれ、明治時代までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院でした。平安時代以降、比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなしました。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場・ばんば)として山伏・僧兵が集まるところとなります。
霊応山平泉寺は、室町時代後半の最盛期には砦や堀を備え、全山石垣に囲まれた要害へと変貌し、東西1.2キロメートル、南北1キロメートルもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成しました。平泉寺白山神社も永平寺と同様に、波多野氏の影響下にありました。
ウィキペディアには、『戦国時代には越前の国主である朝倉氏と肩を並べるほどの一大勢力となっていた平泉寺は、「日本国一番の法師大名」といわれた寺領8000石を誇る飛鳥井宝光院と大聖院が寺内を統括し、その下に寺領3000石の波多野玉泉坊・小河聞浄坊・佐藤福寿坊・三段崎宝蔵坊・中村増智坊などの有力な坊舎が軒を連ねており、また僧兵の出自も朝倉氏の家臣団一族から入室していることもあり、
朝倉氏とは極めて近しい関係であり続けた』という記述があります。永平寺の前身である吉峰寺は、白山信仰に関連する天台寺院でした。平泉寺白山神社も比叡山延暦寺の勢力下にあり、白山信仰を土台とする天台宗の寺院だったのです。永平寺と平泉寺白山神社が繋がっていることが分かります。《白山から結びついた地母神の解放》では、白山神社の祭神・菊理媛命の関連ワークを行いました。
同和地域に白山神社が祀られ、白山信仰が広がっています。ワークでは、「和合(わごう)」というヒントを与えられサンスクリット語の「和合衆(サンガ)」に結びつきます。サンガは元来、集団、共同体の意味であり、修行者の集り、教団を指しますが、中国では転じて個々の修行者を僧と呼びます。松取りの現場作業員の「サンカ」と修行僧の「サンガ」は同じだと思います。
ウィキペディアには、『平泉寺は南北朝時代になると南朝の後醍醐天皇の味方をした。そのため、越前は南朝にとって非常に有力な地域であった。しかし、北朝の斯波高経によって藤島荘を安堵されると北朝に寝返り、藤島城などに立て籠もったので南朝軍と合戦となった』という興味深い記述があります。平泉寺は、戦の勝負ではなく、いかに松を取るかが目的だったからです。
戦国時代の越前の国主は「朝倉義景(1533年-1573年)」です。朝倉義景は、明智光秀と深く関係していました。明智光秀のwikiには「道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける」とあります。山崎の戦い後に自害したとされる明智光秀は天海として生きていました。
過去のヒプノセラピーの《第二の京の都を創るために天海として生きた明智光秀》からは、イエズス会はバックにつけた明智光秀は表舞台を去り、江戸を封じたとされる天海上人として松果体収穫の闇の仕事を続けていたのです。1582年の本能寺の変、山崎の戦いの前後に登場する人物たちを顧みると、松取りのために壮大な工作活動が成されていたと推察します。
織田信長、明智光秀、豊臣秀吉をはじめ、キリシタンの黒田官兵衛、高山右近、細川ガラシャなど、イエズス会が背後についた工作が展開されていたのです。浄土真宗本願寺の信徒が権力に対抗するために起こしたとされる一向一揆も同じ松取りのための工作だと見ています。どうして石山本願寺と織田信長が度重なる抗争(石山合戦)を繰り広げたのかが腑に落ちます。
全ては金儲けである松取りのためであり、上層部が手を組み現場の人たちを犠牲になっていた構図が浮かびます。《今はインパール東京五輪という戦時中》にありますが、現在も支配層の権力者たちが金儲けのために、多くの人命を犠牲にする闇の仕組が続いているのです。朝倉義景、細川ガラシャの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松で儲けていた」「同和。作られた人」と伴侶が伝えて来ました。
キリスト教を主に仏教、神道などの宗教が裏で繋がっていることが垣間見えます。宗教や戦を隠れ蓑として松果体収穫という金儲けが裏で行われて来ました。それは、深い闇を経験して大きな光になるための魂の修行の仕組でもあります。越前の地は、自然豊かな光の土地である故に、隠し装う同和の闇、工作の闇が置かれて来たと感じます。工作の闇が終わり福井の地が開かれて、本来の光の姿になることを願っています。(おわり)