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北海商科大学を運営する学校法人北海学園は、札幌市豊平区に本部を置く学校法人です。現在は、北海商科大学の他に、北海学園大学、北海高等学校、北海学園札幌高等学校を運営しています。1885年、大津和多理(おおつわたり)、浅羽靖(あさばしづか)らにより、札幌区南2条西1丁目に北海英語学校(北海高等学校の前身)を設立したことが始まりです。

 

北海英語学校は、札幌農学校(現・北海道大学)の予科入学を目指す北海道唯一の中等教育機関でした。現在の北海商科大学、北海学園大学は、歴史的にも北海道大学と繋がっていたことになります。1887年、浅羽靖が校長に就任します。1933年、財団法人苗邨学園に改称し、1949年 財団法人北海学園に改称して、各種学院北海学院を開設します。

 

1951年、法令改正により学校法人北海学園へ組織変更しました。大津和多理(1857-1917)は、宮城県仙台市生まれの近代北海道の教育者です。学校法人北海学園の原型となる北海英語学校の創設者で、愛称は、超然とした態度で髭を生やした風貌から仙人です。浅羽靖(1854-1914)は、大阪出身の政治家・官僚で北海英語学校創設者です。

 

北海学園の父とも称されています。大津和多理、浅羽靖の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「秘密を知り封じられたかもしれない」「工作員」と伴侶が伝えて来ました。学校法人北海学園が運営する北海学園大学には付属の北海学園大学開発研究所があります。北海学園大学開発研究所は、経済開発、社会開発の両面にわたって北海道の発展に寄与することを目的として研究を行っています。

 

1957年、上原轍三郎(うえはらてつさぶろう)学長の主導の下、「北海道の開発を中心に地域の経済・社会・文化・技術などに関する基礎的・応用的諸研究を行い、広く社会・経済の発展に寄与することをめざす機関」として同大学に付置されました。北海学園大学開発研究所は、北海道で最初に設立されたシンクタンクでもあり、重要な闇の役割をして来たと感じます。

 

(1883-1872)は、広島県出身の農業経済学者、教育者です。専門は拓殖学(植民学)、開発政策、北海道開拓史の研究です。1905年、旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て札幌農学校(現・北海学園大学)に入学し、高岡熊雄に師事しました。北海道開拓史の研究分野で優れた業績を残し、屯田兵制度や開拓土地制度などについての多くの著書を残しています。

 

屯田兵倶楽部wiki》には、『明治末期に屯田兵研究の嚆矢(こうし)とも言える「北海道屯田兵制度」を著し、戦前戦後を通じて北海道開発の理論的指導者、教育者として北海道開発計画の策定や人材育成に力を注いだ。北海道帝国大学教授、北海道大学名誉教授、北海学園大学の初代学長』と記されています。屯田兵は、隠された大きな闇の代表例です。

 

北海道開拓における大麻栽培の中心となった屯田兵》にありますが、屯田兵は、榎本武揚や西郷隆盛などが、徳川家の遺臣や士族の処遇のために提唱しており、裏で松取りや大麻栽培などで資金稼ぎするためでした。北海学園大学開発研究所の初代所長・上原轍三郎と現所長・西村宣彦に光を降ろすと「ロスチャ。貴族。上級」「面白がっている宇宙人」と伝えられました。

 

やはり、上原轍三郎は、大物のロスチャイルドの工作員でした。アイヌや開拓者の人たちの命を金に換えていた北海道開拓や屯田兵の真実を隠す役割もあったと感じます。北海商科大学の前身である北海学園北見大学が置かれた北見市が気になりました。北見市のウィキペディアを読むと、「櫻田真人前市長が自宅で首をつって自殺した」とあり、深い因縁がある土地だと思います。

 

北見市の現市長・辻直孝(1953-)は、北海学園大学経済学部卒業の経歴でした。倶知安町の文字一志町長が北海学園北見大学(現・北海商科大学)出身であり、北海道の大事な光の地の首長が学校法人北海学園で占められている感じもします。北見市は、サロマ湖や常呂川などの河川や湖沼が豊かな水の地で、倶知安町と同様に隠された金の闇で封じられていると感じます。

 

北海商科大学の現学長・森本正夫と北見市の現市長・辻直孝に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金の抜け道」「仁風林」と伴侶が伝えて来ました。若者の魂の光を封じるために学校が闇にされて来ました。暗闇の教育システムは、闇の仕組の1つでした。十勝や北見の地が開かれて、教育の闇の仕組が終わりになることを願っています。(おわり)