大坂なおみ選手の母方の曾祖母が居住していた勇留島(ゆりとう)が気になりました。勇留島は、歯舞群島の島の一つです。島の名前の由来は、アイヌ語の「ユウロ(それの鵜がたくさんいる→鵜の島)」あるいは「ウリル(鵜の島)」とされます。勇留水道を挟んで秋勇留島が南にあり、北には志発島があります。地名の由来にもあるように、崖には鵜が生息しています。
戦前は、北洋、中千島への漁業の根拠地であり、缶詰工場などの加工施設が設けられました。江戸時代の当初は無人島でしたが、1799年、ネモロ(根室)とアッケシ(厚岸)両場所のアイヌが立会い、秋勇留島などとともに双方の入会地となり、後にネモロ側の漁場となりました。明治時代からは珸瑶瑁村(ごようまいちむら)の一部となり、後に歯舞村に属しました。
沖合漁業の拠点基地として栄え、戦前には501人が在住していました。歯舞群島のウィキペディアには、「定住が開始されたのは明治10年(1877年)以後で、北海道・函館の広業商会が昆布採取のために貸出した資金で生産者・漁師などが居住した。北前船を通じて往来が有った現在の富山県黒部市周辺からの移住者も多かった」とありました。
「どうして富山県黒部市周辺からの移住者が多かったのか」という疑問を持ちました。ネットで調べると《北前船が運ぶ、海の幸~昆布屋さんの熱いはなし~》を見つけました。「薩摩の財政を建て直すために富山の
前田家が密貿易のお手伝いをして、薩摩から琉球を介してどんどん中国 に売っていた。それにより薩摩藩が財を成して借金を返し、なおかつ蓄財をして倒幕に向かって明治維新を迎えたという歴史がある。
富山県の県東部、特に私どもが今住んでいる富山県黒部市生地という所は大変貧しい漁村だったので、出稼ぎを奨励されて北海道に渡った。根室、歯舞群島、色丹島、
知床の羅臼町、利尻島などの他人が開拓をしなかった外れを開拓したのは、この地の人たちであった」と記述されています。「北前船」「前田家」のワードから昆布の裏で松製品を運んで販売していたと感じました。
《夢で伝えられた奈良県葛城と修験道の開祖・役行者ゆかりの黒い丸薬》にありますが、江戸時代、加賀藩の前田家は、松果体成分の丸薬を製造販売して、加賀百万石の裕福な藩となりました。これは、過去の光の講座でのヒプノセラピーの内容に合致します。クライアントの方の道南の実家では、祖父が昆布製品の製造販売をしており、京都の料亭に商品を卸していました。
祖父は、裕福な暮らしをしており、昆布販売の裏で松製品を販売していたことが分かったのです。恐らく、昆布と松製品は、「表の昆布と裏の松」のようにセットで販売されていたと感じます。また、《北アルプス立山を封じる黒部ダムと黒四発電所に隠されたアドレノクロムの闇》に記しましたが、黒部ダム、黒四発電所(黒部川第四発電所)の地下にはアドレノクロム工場があると推測しています。
黒部漁港は、その運搬ルートとしても使われていたと感じます。それ故、黒部市から北方領土の歯舞諸島や羅臼町に移住した人は多かったのだと思います。ウィキペディアに「1961年(昭和36年)8月23日から28日にかけて33隻の漁船がソ連に拿捕されたため、歯舞群島近海での安全操業を求める声が強くなった。これを受けて、大日本水産会会長であった高碕達之助がソ連と交渉を行った結果、
1963年(昭和38年)6月10日に日ソ貝殻島昆布採取協定が締結された」と記されていました。「大日本水産会」は、松の利権団体だと直感しました。一般社団法人大日本水産会は、1882年(明治15年)設立で、水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売販売会社など、約400の会員で構成される元農林水産省所管の業界団体です。
水産業会の意見を国の施策に反映させる。
漁業における国際会議や地域管理機関などの活動をNGOの立場で支援します。大日本水産会の元会長・高碕達之助(1885年-1964年:東洋製罐創業者)、初代幹事長・品川弥二郎(1843年-1900年:松下村塾・長州藩士)に御魂が上がるように光を降ろすと「満鉄利権。上級」「工作員」と伴侶が伝えて来ました。
また、現会長・白須敏朗(1951年-)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「仁風林」と伝えられました。道東には、ロシアルートの松利権が隠されていると見ています。1945年の終戦と旧ソ連(ロシア)との関係が絡む「北方領土問題」には隠された闇を感じ、いずれ紐解く必要があると感じます。北海道の光を封じる金の闇、エゴの闇が終わりになることを願っています。(おわり)